源英明
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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死没 | 天慶3年2月25日(940年4月5日) |
官位 | 従四位上・左近衛中将 |
主君 | 醍醐天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:斉世親王、母:菅原道真三女・寧子 |
兄弟 | 庶明、英明 |
妻 | 藤原道明娘 |
子 | 清時、幹時、忠時、堯時、藤原元名室、藤原助信室 |
源 英明(みなもと の ふさあきら/つねよし)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。宇多天皇の孫。兵部卿・斉世親王の長男。官位は従四位上・左近衛中将。
経歴
昌泰4年(901年)の昌泰の変により、父・斉世親王が舅である菅原道真に連座して出家。それに伴い、幼年時代は不遇であった。
16歳で従四位下に叙せられ、翌年に侍従に任ぜられる。醍醐天皇の信任厚く、延喜23年(923年)右近衛中将、延長5年(927年)蔵人頭と要職を歴任した。延長8年(930年)醍醐天皇から朱雀天皇への譲位に伴って蔵人頭を辞する。承平元年(931年)宇多上皇が崩御すると以降は不遇で[1]、承平4年(934年)左近衛中将に遷るが、結局公卿への昇進は叶わなかった。
天慶2年(939年)7月頃から病となり[2]、翌天慶3年(940年)2月25日卒去。最終官位は左近衛中将従四位上。
人物
父の真寂法親王が執筆していた『慈覚大師伝』を遺言として委ねられ、これを完成させた。清書を小野道風に依頼したが、装丁ができないうちに英明自身も没したという[3]。
漢詩に優れ「詩境には無限上手なり」と評された[3]。『扶桑集』『本朝文粋』『類聚句題抄』『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』『作文大體』『和漢兼作集』などに数十首の漢詩作品が採録されている[4]。家集『源氏小草』(全五巻)があったとされるが伝わらない[5]。不遇の詩人橘在列と親交があった。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品1首が入集している[6]。
官歴
- 時期不詳:従四位下。侍従
- 延喜23年(923年) 正月12日?:右近衛中将[7]
- 時期不詳:従四位上。兼播磨守
- 延長5年(927年) 2月9日:蔵人頭[8]
- 延長8年(930年) 9月22日?:去蔵人頭(譲位)
- 承平4年(934年) 12月21日?:左近衛中将[7]
- 承平8年(938年) 6月23日?:兼伊予権守[7]
- 天慶3年(940年) 2月25日:卒去(左近衛中将従四位上)[2]
系譜
脚注
参考文献
- 『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137
- 甲田利雄『校本江談抄とその研究下』続群書類従完成会、1988年