法の不遡及
法の不遡及(ほうのふそきゅう)とは、法令の効力はその法の施行時以前には遡って適用されないという法体系における理念の一つである。
罪刑法定主義・大陸法に分類される法体系では一般原則として強く支持されているが、コモン・ロー・英米法に分類される法体系では一応存在する程度の理念である。
概説
法令は施行と同時にその効力を発揮するが、原則として将来に向かって適用され法令施行後の出来事に限り効力が及ぶ[1][2]のであり、過去の出来事には適用されない[2]。これを法令不遡及の原則という[2]。
人がある行為を行おうとする場合には、その行為時の法令を前提としているのであるから、その行為後の法令によって予期したものとは異なる効果を与えられたのでは法律関係を混乱させ社会生活が不安定なものとなるためである[2]。
以上の法令不遡及の原則は法解釈上の原則であって、立法政策として一切の法令の遡及が認められないわけではない[3]。法令の内容によっては施行日前の過去のある時点に遡って法令を適用する必要がある場合もあるからである[1][3]。国民に利害関係が直接には及ばない場合や関係者にとって利益になる場合などである[3]。このように法令を過去のある時点に遡って適用することを法令の遡及適用という[1][3]。
法令の遡及適用は法令不遡及の原則の例外であり、立法上いつでも認められるわけではない[3]。法令の遡及適用は過去の既成事実に新たな法令を適用することとなり、法律関係を変更してしまうことになるから、あくまでも例外的な措置であり遡及適用を認めるには強度の公益性がある場合でなければならない[1][3]。特に刑罰法規については国民に対して重大な損害を及ぼすことになることから法令の遡及適用は禁じられている[1][4](後述の刑罰法規不遡及の原則)。
刑罰法規不遡及の原則
刑罰法規不遡及の原則とは、実行時に適法であった行為を、事後に定めた法令によって遡って違法として処罰すること、実行時よりも後に定めた法令によってより厳しい罰に処すことを禁止する原則をいう。事後法の禁止、遡及処罰の禁止ともいう。刑法の自由保障機能(罪刑法定主義)の要請によって認められた原則である。
大陸法においては強く支持される原則であり、フランス人権宣言第8条にその原型があり、ドイツ連邦共和国憲法第103条2項にも規定がある。人権と基本的自由の保護のための条約(欧州人権条約)第7条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)15条にも同様の定めがある。
ただしこの原則は刑事被告人の利益のためのものであるため、刑事被告人に有利になる場合はこの限りでない。たとえば行為後に法定刑が軽減された場合、軽い方の刑に処せられる。例として、尊属殺人重罰規定の廃止、犯行時の死刑適用年齢が16歳だったのを18歳へ引き上げ、死刑制度廃止前に死刑になる犯罪を犯した場合などが挙げられる。
「法律なくして刑罰なし」の法諺に象徴される罪刑法定主義思想はローマ法に起源を持つものではなく、1215年のマグナ・カルタ[5]に淵源をもち18世紀末[6]の西欧革命期に欧米で確立した法概念である。
現代でもコモン・ローを背景とする英米法思想では比較的寛容であり、例えばアメリカではアメリカ合衆国憲法第1条第9節などで言及はされているが、コモン・ロー上の罪と法の不遡及が矛盾した場合はコモン・ロー上の罪が優先されることがある。国際法においては1953年発行の人権と基本的自由の保護のための条約(欧州人権条約)第7条2項に於いて、犯行当時に文明国の法の一般原則に従って犯罪であった場合は不遡及の例外としての処罰を認めている。また、1976年発効の自由権規約15条2項に於いても不遡及の例外が言及されており国際慣習法(コモンロー)に配慮したものである[7]。
中国
中国国務院の鄧中華香港マカオ事務弁公室副主任は法の不遡及を明言している[8]。ただし、遡及処罰と考えられるような逮捕は国家政権転覆罪に抵触する類であれば、実施される可能性が高い[9][10]。
日本
この節は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。 |
日本では1880年の旧刑法(明治13年太政官布告第36号)第2条[11][12]が罪刑法定主義を明記して以降、一貫して刑罰法規不遡及の原則が採用されており、
- 第三十九条 前段
- 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。
と日本国憲法においても採用されている。
例外として、刑法6条は犯罪後の法律によって刑の変更があった場合、その軽い刑によって処罰するとの規定が設けられている。また、判決前に法改正によって刑が廃止された場合には、免訴の言い渡しがされる(刑事訴訟法第337条第2号)。判決があった後に刑の廃止、変更または大赦があった場合には、それを理由として控訴申し立てができる(刑事訴訟法第383条第2号)。再審事由ともなる(刑事訴訟法第435条)。
近年の刑事訴訟法改正による、公訴時効進行中の事件に対する適用が、改正以前の成犯に対しても公訴時効が成立していないものについては適用されることから日本国憲法第39条に違反する可能性が指摘されている。この近年の公訴時効延長に関する問題は諸学説あるが、判例は「時効の廃止は憲法で禁止されているような違法性の評価や責任の重さをさかのぼって変更するものではない」としている[13][14]。
韓国
大韓民国憲法第13条1項においては罪刑法定主義が採用され、第13条2項において遡及立法による財産の剥奪も禁じられている。しかし国民情緒法と俗称される以下の法律が国策で強行され、適用された。罪状は私財の国家への没収、追徴、死刑判決などである。一旦判決を出した後に特赦・恩赦で罪が軽減されることがある。
- 日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法 - 親日人名辞典の編纂で知られる。
- 親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法
- 反民族行為処罰法
- 5・18民主化運動等に関する特別法 - 「大統領に限って時効は成立しない」との特別法を制定し、光州事件に関連する前職大統領2人全斗煥、盧泰愚に対し遡及して罪を課した。
- 5・18民主化運動の真相究明のための特別法 - 2018年9月から施行[15]。
ドイツ
ドイツ国会議事堂放火事件の後に制定された「絞首刑に関する法律」が挙げられる。
戦犯法廷
第二次世界大戦以前においては、国家機関として行為した個人には、刑事免責が認められるとされていた(国家行為の法理)。しかし第二次世界大戦において連合国はニュルンベルク原則[16]を提示したため法の不遡及の論点が生じ、敗戦国の指導者及び協力者達を国際法上の「犯罪者」として責任を問うたため、この処置は法の不遡及に反するという指摘がなされている[17]。一方でドイツ第3軍事裁判所[18]は、立憲国家の成文憲法のもとで妥当している事後法の遡及禁止原則は国際法(ここでは国際慣習法・普遍的な国際法・コモンロー)には適用されないと判示しており、条約や協定など国際的に承認された実体的な規範(モスクワ宣言・ロンドン協定)が法律を超える法として実在しており、仮にその条約をドイツが承認していないとしても殺人や暴行などがドイツ刑法上の犯罪類型に該当する限りにおいて遡及立法の排除原則によっても斥けられないとしている[19]。なおこの点については軍事裁判所は軍律審判であり占領軍が占領地においてハーグ陸戦条約においても認められた軍事行動(強制外交手段)の一環である[20][21]点については注意が必要である。
大量虐殺法廷
カンボジア・クメール・ルージュによって犯された虐殺行為の加害者たちを処罰するために2001年に設立されたカンボジア特別法廷について、その起訴事由としてニュルンベルク裁判において概念が示された「人道に対する罪」が参照されたが、これは国際刑事裁判所(ICC)ローマ規程において明記されている国際法上の犯罪概念ではあるものの、犯罪時にICCはまだ設立されていなかったことから、不遡及の原理から審理の担当はICCではなく、国内法廷の特別部として管轄問題を扱い、これに国連からの指導を受ける形を採用することとなった[22]。
参考文献
- 小梁吉章「アルマン・レネ「フランス・ベルギーの国際私法の歴史素描」<翻訳>」『廣島法學』第38巻第3号、広島大学法学会、2015年1月、52-20頁、doi:10.15027/37033、ISSN 0386-5010、NAID 120005595942。
- 小寺初世子「国際刑法と罪刑法定主義 (栗野鳳教授退官記念号)」『広島平和科学』第5号、広島大学平和科学研究センター、1982年、83-106頁、doi:10.15027/15128、ISSN 03863565、NAID 120000882480。
脚注
- ^ a b c d e 田島信威 立法技術入門講座2「法令の仕組みと作り方」、ぎょうせい、1988年、425頁
- ^ a b c d 田島信威「法令入門」第3版、法学書院、2008年、85頁
- ^ a b c d e f 田島信威「法令入門」第3版、法学書院、2008年、86頁
- ^ 田島信威「法令入門」第3版、法学書院、2008年、87頁
- ^ マグナ・カルタ第39条
- Nullus liber homo capiatur, vel imprisonetur, aut disseisiatur, aut utlagetur, aut exuletur, aut aliquo modo destruatur, nec super eum ibimus, nec super eum mittemus, nisi per legale judicium parium suorum vel per legem terre.
- いずれの自由人も、同輩による適法の審判又は国法によるのでなければ、逮捕、収監、押収、追放他一切の侵害を受けることはなく、我々は、それを及ぼすこともない。
- Nullus liber homo capiatur, vel imprisonetur, aut disseisiatur, aut utlagetur, aut exuletur, aut aliquo modo destruatur, nec super eum ibimus, nec super eum mittemus, nisi per legale judicium parium suorum vel per legem terre.
- ^ 小梁吉章 2015.
- ^ 小寺初世子 1982, p. 12.
- ^ “香港「国家安全法」巡り不遡及の原則に言及-中国国務院幹部”. www.bloomberg.co.jp. www.bloomberg.co.jp. 2020年10月26日閲覧。
- ^ “周庭氏逮捕「法の支配」からあまりに乖離する訳”. toyokeizai.net. toyokeizai.net. 2020年10月26日閲覧。
- ^ “昨年8月に日本経済新聞に掲載された意見広告について聴取を受けたことを明らかにした。”. www.asahi.com. 朝日新聞デジタル. 2020年10月26日閲覧。
- ^ 第2条 法律ニ正條ナキ者ハ何等ノ所爲ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス
- ^ このほか大日本帝国憲法(明治23年)第23条 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
- ^ 最高裁判所第一小法廷判決 平成27年12月3日 、平成26(あ)749、『強盗殺人被告事件』、“公訴時効を廃止するなどした平成22年法律第26号の経過措置を定めた同法附則3条2項は憲法39条,31条に違反しない”。
- ^ “時効廃止は「合憲」=18年前強殺で無期確定へ-最高裁”. 時事ドットコム (時事通信社). (2015年12月3日) 2015年12月30日閲覧。
- ^ “全斗煥、5・18真相究明法で再び処罰が可能”. japan.hani.co.kr. 2019年5月9日閲覧。
- ^ 国際法上の犯罪を国家に帰属させるのではなく個人に帰属させるという原則。「国際法上の犯罪は人により行われるものであり、抽象的な存在によって行われるものではない。したがって、当該犯罪を行った個人を処罰することによってのみ、国際法上の犯罪規定は履行されうる」Office of United States of Counsel for Prosecution of Axis Criminality,Nazi Conspiracy and Aggression. Opinion and Judgement(1947),P.53。直接の引用は木原正樹 (2008-09). “個人の処罰と国家責任の賦課による「ジェノサイド罪」規定の履行” (PDF). 神戸学院法学、第38巻1号 .
- ^ 多谷千香子. 戦争犯罪と法. 岩波書店. ISBN 4000236660
- ^ アメリカ軍の管轄裁判所であり3人の判事はすべてアメリカ人であった
- ^ 本田稔「ナチスの法律家とその過去の克服--1947年ニュルンベルク法律家裁判の意義」(PDF)『立命館法學』2009年5・6、立命館大学、2009年、2219-2255(p.19-22)、ISSN 04831330、NAID 110007632730。
- ^ 石田清史 (2005-11). “近代日本に於る参審の伝統” (PDF). 苫小牧駒澤大学紀要、第14号 .
- ^ 石田清史「近代日本に於る参審の伝統--裁判員制度を契機として」(PDF)『苫小牧駒澤大学紀要』第14号、苫小牧駒澤大学、2005年11月、45-75(p.61-63)、ISSN 13494309、NAID 40007162999。
- ^ “カンボジアスタディツアー報告書(完成版)” (PDF). cdr.c.u-tokyo.ac.jp. p. 14. 2019年5月9日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 奥田安弘「国家賠償責任と法律不遡及の原則」『北大法学論集』第52巻第1号、北海道大学大学院法学研究科、2001年、1-70頁、ISSN 03855953、NAID 120000953831。
- 神戸・加害教員の給与差し止めは「世論に流されすぎ」 悪しき先例となる恐れ
- エッピングフォルカー, 本田稔「ヴァン・デル・ルッベ法 : 「法律なければ犯罪はなく,刑罰もなし」の 基本原則の意味に関する一考察」『立命館法學』第2011巻第4号、立命館大学法学会、2011年、2294-2326頁、doi:10.34382/00006784、ISSN 0483-1330、NAID 110008802933。
- 齋藤健一郎「法律の不遡及原則の歴史的展開」『商學討究』第67巻第1号、小樽商科大学、2016年7月、139-193頁、ISSN 0474-8638、NAID 120005830858。