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ヴィスタム

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ヴィスタム
بیستام
シャーハーンシャー
ヴィスタムのコイン
在位 590年1月596年(594年600年5月?)

死去 596年?600年?
ホスロー2世
配偶者 ゴルディヤ
家名 アスパーフバド家英語版
王朝 サーサーン朝
父親 シャープール
宗教 ゾロアスター教
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ヴィスタムまたはビスタム(ペルシャ語:بیستام)は、イランの諸侯アスパーフバド家英語版の支配者であり、サーサーン朝のホスロー2世(在位:590年-628年)の母方のおじ。ヴィスタムは、同じくサーサーン朝の大貴族だったミフラーン家バハラーム・チョービンの反乱の際、ホスロー2世の王座奪還に協力したが、後に自身がホスロー2世に対する反乱を率いて王を称した。ホスロー2世とその同調者に敗北するまでイラン東部全体を含む地域を統治した。

初期の経歴

ヴィスタムとその兄弟ヴィンドイ英語版は、シャープールの息子であり、またバウィ英語版の孫だった。彼らは、サーサーン朝七大貴族の1つであるアスパーフバド家英語版に属していた。アスパーフバド家は非常に高い地位にあり、「サーサーン朝の血族にして朋友」として認められており、サーサーン朝の南西部の統治に関与する西のスパーフベドという重要な地位を保持していた。ヴィスタムの妹はホルミズド4世(在位:579–590)と結婚し、ホルミズド4世の後継者のホスロー2世を儲けさえした[1][2]

それにもかかわらず、アスパーフバド家は他の貴族とともに、ホルミズド4世の治世後期の迫害で苦しんだ。父のシャープールは殺害されたためヴィスタムがその地位を継いだ。ホルミズド4世の迫害は590年にバハラーム・チョービン将軍の反乱を引き起こした。反乱軍は急速に支持を拡大し、首都クテシフォンに進軍した[2][3]。この状況の中で、ホルミズド4世はヴィスタム兄弟を中央から排除しようとしたが、セベオス英語版によれば息子のホスロー2世はこれを制止しようとした。ヴィンドイは投獄されたが、ヴィスタムは宮廷から逃げたと見られる。この直後、ヴィスタムら兄弟は宮殿のクーデターを起こし、ホルミズド4世を退位させ、盲目にして殺すと共に、その息子のホスロー2世を王位につかせた[2][4]。しかし、バハラーム・チョービンのクテシフォンでの行進に対抗することはできず、ホスロー2世と二人の兄弟はアーザルバーイジャーンに逃げた。ヴィスタムは軍を集めるため後方に残り、ヴィンドイはホスロー2世を護衛し、ビザンツ帝国からの援助を求めようとした。途中で、彼らはバハラーム・チョービンの軍隊に追いつかれたが、ヴィンドイはホスロー2世を脱出させるため、ホスロー2世のふりをして敵に捕縛されることを選択した。591年、ホスロー2世はビザンツ帝国軍の軍事援助で帰還し、12,000人のアルメニア騎兵隊とヴィスタムが編成したアーザルバーイジャーンの8,000人の軍隊が加わった。ブララソンの戦い英語版で、バハラーム・チョービンの軍隊は壊滅的な敗北を喫し、ホスロー2世はクテシフォンと王位を取り戻した[2][5][6]

後期の経歴と反乱

勝利の後、ホスロー2世は彼のおじたちに高い地位を与えてその功績に報いた。ヴィンドイは財務長官(treasurer)と宰相(first minister)となり、ヴィスタムはタバリスターンとアスパーフバド家の伝統的な根拠地であるホラーサーンを包括する東のスパーフベド(軍司令官)の地位を得た[2][7]。だが、ホスロー2世はすぐに意思を変え、父親殺害の嫌疑から自身を遠ざけるべく、ヴィスタムを処刑することを決意した。サーサーン朝の君主たちは伝統的に力を持ちすぎた有力者を不信の目で見ており、またヴィンドイの恩着せがましい振る舞いに対するホスロー2世の個人的な怒りも確実にこの決断を後押しした。ヴィンドイはすぐに処刑された。シリア語の史料によれば、彼は兄弟のヴィスタムの下へ逃亡中に捕らえられたという[2][8]

北部イランの地図

兄弟が殺害されたという知らせを受け、ヴィスタムは公然と反旗を翻した。アル=ディナワリによれば、ヴィスタムはホスロー2世に手紙を送り、自身がパルティア王(アルサケス家)の後裔であることを理由に正当な王位があることを次のように伝えた。

そなたは余よりも支配者として相応しくない。まさに余がアレクサンドロスと戦ったダーラーの子ダーラー(ダレイオス)に連なる故に統治者としてより相応しい。そなたらサーサーン家の者たちは不当に我ら(アルサケス家)の上に立っており、我らが権利を簒奪し、我らを不正に取り扱った。そなたの祖先サーサーンは羊飼いにすぎなかったのだ。

ヴィスタムの反乱は以前のバハラーム・チョービンの反乱のように支持者を得てたちまち拡大した。地方有力者や、バフラーム・チョービンの軍団の残党が彼の下へ集い、この流れはヴィスタムがバフラーム・チョービンの姉妹ゴルディヤ(Gordiya)と結婚した後は特に強まった。ヴィスタムは彼を制圧しようとした複数回のサーサーン王室側の攻撃を退け、すぐに4つに分かたれていたペルシアの国土のうち東部と北部全体に権威を確立した。その支配地はオクサス川から西方のアルダビールまで広がっていた。彼は東方へも遠征を行い、トランスオクシアナエフタルの二人の王子、ShaugとPariowkを捕らえた[2][9]。ヴィスタムの反乱が起きた時期は不明である。彼のコインから、反乱は7年間続いたことがわかっている。一般的には590年から596年頃であるとされている。しかし、J.D.ハワード=ジョンストン(J.D. Howard–Johnston)やP. Pourshariatiのような何人かの学者はその発生をもっと遅く、アルメニアのVahewuniの反乱と一致する594/5年であると主張している[10]

ヴィスタムがメディア英語版を脅かすようになると、ホスロー2世はいくつかの軍勢を差し向けたが、決定的な成果を得る事はできなかった。ヴィスタムと彼の支持者たちはギーラーンの山岳地帯へ後退し、サーサーン朝軍の複数のアルメニア人部隊が反逆してヴィスタムの下へと走った。最終的に、ホスロー2世はアルメニアのスムバト4世英語版(バグラトゥニ家)に奉仕を呼びかけた。彼はクーミス (イラン)英語版は(ヘカトンピュロス)の近郊でヴィスタムを捕捉した。戦闘中、ヴィスタムはホスロー2世の意を受けたPariowk(別の史料によれば彼の妻ゴルディヤ)によって殺害された。にもかかわらずヴィスタムの軍勢はクーミスからホスロー2世側の軍勢を退けることに成功した。そして翌年、スムバト4世は再度の遠征によってこの反乱を最終的に終わらせなければならなかった[2][11]

死後

ヴィスタムの反乱と死にもかかわらず、アスパーフバド家の力はあまりにも強大であり、失われることはなかった。実際、ヴィンドイの息子の一人は、628年のホスロー2世の廃位後の彼の処遇に関わり、ヴィスタムの息子の二人、ヴィンドイとティルイは、従兄弟ナルセとともに、イスラム教徒と対峙したペルシア軍の司令官だった[2][12]

イランバスタム英語版の町とターク・イ・ブスタンの記念碑的な場所は、ヴィスタムにちなんで命名された可能性がある[2]

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バウィ英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャープール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヴィンドイ英語版
 
 
 
 
 
ヴィスタム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホルミズド5世
 
 
ティルイ
 
 
 
ヴィンドイ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
en:Rostam Farrokhzad
 
en:Farrukhzad
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Shahram
 
スルハブ1世
 
en:Isfandyadh
 
バハラーム
 
Farrukhan
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

  1. ^ Pourshariati 2008, pp. 106–108.
  2. ^ a b c d e f g h i j Shapur Shahbazi 1989, pp. 180–182.
  3. ^ Pourshariati 2008, p. 122.
  4. ^ Pourshariati 2008, pp. 127–128, 131–132.
  5. ^ Pourshariati 2008, pp. 127–128.
  6. ^ Martindale, Jones & Morris 1992, p. 232.
  7. ^ Pourshariati 2008, pp. 131–132.
  8. ^ Pourshariati 2008, pp. 132, 134.
  9. ^ Pourshariati 2008, pp. 132–133, 135.
  10. ^ Pourshariati 2008, pp. 133–134.
  11. ^ Pourshariati 2008, pp. 136–137.
  12. ^ Pourshariati 2008, pp. 163, 189, 212.

参考文献

  • Howard-Johnston, James (2010). "ḴOSROW II". Encyclopaedia Iranica, Online Edition. 2013年11月9日閲覧 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  • Martindale, John Robert; Jones, Arnold Hugh Martin; Morris, J., eds (1992). The Prosopography of the Later Roman Empire, Volume III: A.D. 527–641. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-20160-5. https://books.google.com/books?id=ElkwedRWCXkC 
  • Pourshariati, Parvaneh (2008). Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran. London and New York: I.B. Tauris. ISBN 978-1-84511-645-3. https://books.google.com/books?id=I-xtAAAAMAAJ 
  • Shapur Shahbazi, A. (1989). "BESṬĀM O BENDŌY". Encyclopaedia Iranica, Vol. IV, Fasc. 2. pp. 180–182. 2013年8月13日閲覧 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
ヴィスタム

不明 - [[596年または600年]]

先代
ホスロー2世
シャーハンシャー
590年1月 – 596年 or 594年5月 – 600年
次代
ホスロー2世