多賀谷政広
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 安芸守 |
主君 | 結城晴朝、秀康 |
氏族 | 多賀谷氏 |
父母 | 多賀谷為広 |
子 | 村広 |
多賀谷 政広(たがや まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。結城氏の家臣。多賀谷重経の父・政経は従兄弟に当たる。
略歴
[編集]多賀谷為広の子として誕生。多賀谷氏が結城氏に帰属する際、その人質として差し出され、そのまま結城氏の家臣となった。
結城晴朝の時代には、主に下野宇都宮氏や佐竹氏、後北条氏などに対する外交の使者として活躍し、弘治2年(1556年)に下都賀郡内に知行を受け、天正14年(1586年)には常陸国の小栗城の在番も務めた。天正18年(1590年)、小田原征伐で豊臣秀吉に謁見し、結城秀康の結城氏入嗣をまとめた。この際、秀康から2050石の知行を受けている。
政広の後を継いだ村広は土浦城の城代を務め、福井藩に移封後も活躍したという。
出典
[編集]- 戦国時代人物事典 学習研究社(2009年) ISBN 4054042902