久米義広
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文22年(1553年) |
官位 | 安芸守 |
主君 | 細川氏 |
氏族 | 三好氏?→久米氏 |
父母 | 三好長輝?[1]、久米鈍行?[1] |
兄弟 | 三好長秀?、三好頼澄?、芥川長光?、三好長則[2]、久米義広? |
妻 | 細川之持の娘(細川持隆の妹)、大原伊賀守の娘?[1] |
子 | 義昌(四郎左衛門)、三好実休(三好長慶の弟)室 |
久米 義広(くめ よしひろ)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣。阿波国芝原城主。三百貫。
略歴
天文21年(1552年)8月、一族とされ、娘婿の三好実休が、妻の兄である阿波守護・細川持隆を殺害したことに激怒し、実休を討つために天文22年(1553年)初めに野田山城主・野田内蔵助、英城主・仁木日向守高将、佐野須賀城主・佐野丹後守、蔵本城主・小倉重信らと共に軍事行動を起こした。
実休の妹婿・小笠原成助を攻撃するなどしたが、やがて三好実休が3,000兵を率いて進撃してきた(鑓場の戦い)。野田内蔵助が討たれるなど乱戦になり、義広らも討死した。
子の義昌が後を継いだ。
出典
参照文献
- 『角川日本地名大辞典 36 徳島県』(1986年 ISBN 4040013603)