坂部亀太郎
坂部 亀太郎 さかべ かめたろう | |
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生年月日 | 1899年2月2日 |
出生地 | 愛知県 |
没年月日 | 1978年11月22日(79歳没) |
出身校 | 西尾町立西尾尋常高等小学校(現・西尾市立西尾小学校) |
所属政党 |
(立憲民政党→) (自由民主党→) 無所属 |
称号 | 勲五等瑞宝章 |
西尾市長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1957年9月15日 - 1961年9月14日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1938年 - 1939年 |
愛知県会議員 | |
選挙区 | 幡豆郡選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1938年11月12日 - 1947年1月17日 |
坂部 亀太郎(さかべ かめたろう、1899年(明治32年)2月2日[1] - 1978年(昭和53年)11月22日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(1期)、西尾町長(1期)、愛知県会議員(2期)、西尾町会議員などを歴任した。
来歴
愛知県出身。1913年(大正2年)、西尾町立西尾尋常高等小学校(現・西尾市立西尾小学校)卒業。若い頃は専業農家で、田畑2.6ヘクタールの耕作にいそしんだ[2]。
結婚3年目の1928年(昭和3年)、産業組合理事に就任。また、西尾町会議員に当選した[2][3]。
1938年(昭和13年)10月17日、幡豆郡選出の県会議員、稲垣一郎が死去。これに伴って11月12日に行われた補欠選挙に立憲民政党公認で立候補し、初当選した[4]。1939年(昭和14年)の県議選で再選し、辞任する1947年(昭和22年)1月17日まで県議を務めた。また、1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)まで西尾町長を務めた[3]。
1957年(昭和32年)8月21日、西尾市長の中村謙作が1期目の途中で辞職[5][6]。同年9月15日に行われた市長選挙に自由民主党公認で立候補し初当選を果たした[7]。
都市計画街路花ノ木通線の事業に尽力し、同街路は1958年(昭和33年)5月に開通した。公共事業としては1961年(昭和36年)1月の市役所新庁舎起工、上水道竣工(志貴野水源完成)、消防署開署、4月の西尾バラ園の開園などが挙げられる。政務に忙殺されながらも、1958年(昭和33年)10月に全国製茶品評会、1960年(昭和35年)11月に第1回働く人たちの祭典が開かれるなど、地場産業の育成にも心血を注いだ[3]。
1961年(昭和36年)9月8日に行われた市長選で金物商役員の杉浦喜之助に敗れ落選[8]。
1973年(昭和48年)11月2日、西尾市名誉市民に推挙される。 1978年(昭和53年)11月22日、死去[9]。79歳没。
脚注
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、251頁。
- ^ a b 『中部日本新聞』1961年9月5日付朝刊、三河版、6面、「西尾市長選 両候補の横顔と公約」。
- ^ a b c 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日、509頁。
- ^ 『愛知県議会史 第八巻』愛知県議会、1971年3月30日、390-391頁。
- ^ 『中部日本新聞』1957年8月22日付朝刊、三河版、4面、「〝福地問題解決を〟 中村市長語る」。
- ^ 西尾市史編纂委員会『西尾市史 第五巻』西尾市役所、1980年6月25日、455頁。
- ^ “第2回西尾市長選挙結果” (PDF). 西尾市公式ウェブサイト. 2021年12月20日閲覧。
- ^ “第3回西尾市長選挙結果” (PDF). 西尾市公式ウェブサイト. 2021年12月20日閲覧。
- ^ “名誉市民”. 西尾市公式ウェブサイト (2021年4月21日). 2021年12月20日閲覧。