安満遺跡
安満遺跡(あまいせき)は、大阪府高槻市にある弥生時代の遺跡。三島平野の東端部に位置し、高槻市東部を流れる桧尾川が形成した扇状地に立地している。国の史跡に指定されている。
概要
遺跡は、1928年に京都大学大学院農学研究科附属農場[1]建設工事の際に発見された。さらに1966年頃から、住宅開発が始まったことをきっかけに農場北側の発掘調査が行われ、集落跡が広範囲に広がっていることから、比較的大きい規模の集落がこの地に拓けていたことが判った。1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。また、この地が弥生文化を知る上で重要な遺跡であることから、農場北側、東西600m、南北100mの範囲が国の史跡に指定されている。全体では東西1500m,南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている遺跡である。
1966年からこれまで、50回以上に及ぶ発掘調査が行われている。
かつて当地に存在した京都大学大学院農学研究科附属農場の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を高槻市が「安満遺跡公園」として整備し、本遺跡を保存・活用するとともに、防災機能を備えた大規模公園として整備する工事が進められている。2019年3月、公園西側が一部開園。2021年3月には公園内全面開園された。
集落
三島地方で初めて米作を始めた土地であり、弥生時代前期から中期まで続いた集落があったとされている。居住群のまわりに壕でめぐらせる環濠集落跡で、集落の南側に用水路を備えた水田が広がり、東側と西側は墓地になり、方形周溝墓が100基以上確認されている。
このあたりは湿地帯で、遺跡の北東に流れる桧尾川の洪水や氾濫に脅かされることも多かったため、一時期山麓の芝谷遺跡などの高地性の集落へと移った形跡があったとされている。
集落の変遷
発掘調査から集落は弥生時代を通じて5段階の変遷をたどっていることが確認され、大きく3段階で構成される。
前期
居住域が遺跡中央部南寄りの高台に設けられ、東西150m、南北140mの不整形な環濠で囲まれた部分が中心となる。生産域である水田は、居住域の南側の一段低くなった区域にあり、東西約400m,南北約150mの範囲に広がっている。墓域は、居住域の東方300mから500mの地域。
中期
中期では、2段階の変遷がたどれる。
- 中期(前)
居住域、生産域、墓域のいずれもが前期と同じ場所で営まれるが、それぞれの規模は大きくなる。
- 中期(後)
居住域はこれまでの区域とその北側200mの区域とに分かれ、生産域も前半の区域のほかに東方に小規模な水田区が現れる。墓域は前半のものが放置され、遺跡の西部と中央北部に新たに設けられるようになる。このことは、これまで1つのグループのものであったのが、この時期に2つのグループに分化したものと考えることができる。また、後期でも2つのグループに分かれている。
後期
中期に比べ規模は縮小すると同時に、大きな変化が見られるようになる。後期でも2段階の変遷を認めることができるがその間に大きな差はない。居住域は、前期以来の区域に規模を縮小しながら営まれるものと、その東方500mの地点でこれまで墓域であった地域に設けられたものがあり、北の高台にあった居住域は消滅する。生産域は、それぞれの居住区の南側の低地に設けられているが、墓域についてはまだ確認できていない。
脚注
- ^ “京都大学大学院農学研究科附属農場 語”. 2010年1月20日閲覧。
関連項目
外部リンク
座標: 北緯34度51分23.1秒 東経135度37分51.4秒 / 北緯34.856417度 東経135.630944度