コンテンツにスキップ

中原致時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Anakabot (会話 | 投稿記録) による 2022年6月23日 (木) 07:53個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Bot作業依頼#Cite bookの更新に伴う修正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

中原 致時(なかはら の むねとき、生年不詳 - 寛弘8年7月8日1011年8月9日))は、平安時代中期の貴族刑部大輔中原有象の子。官位従四位上伊勢守

経歴

村上朝応和3年(963年明経得業生に補せられると、康保3年(966年明経試を課され、翌康保4年(967年)及第する。

兵部少録造酒権佑を経て、円融朝天元3年(980年権少外記に任ぜられると、天元4年(981年)少外記、永観2年(984年)大外記と外記局で順調に昇格し、同年10月に従五位下肥前守に叙任されて地方官に遷った。

一条朝初頭の永延元年(987年明経博士に任ぜられると、永祚元年(989年)従五位上・大外記に叙任され、再び外記局に戻る。致時は中原氏として初めて大夫外記となり、以降、大夫外記は中原氏が代々世襲するようになった[1]。大外記の傍らで明経博士・主税権助を兼ねる一方で、丹波介播磨介などの兼国にも与り、この間の正暦4年(993年正五位下に昇叙されている。

長徳4年(998年信濃守に任ぜられて再び外記局を去ると、長保3年(1001年)造宮の功労により従四位下と四位に昇り、寛弘元年(1004年)従四位上・伊勢守に叙任された。

三条朝初頭の寛弘8年(1011年)7月8日卒去

人物

勅撰歌人として『後拾遺和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[2]

官歴

地下家伝』による。

系譜

『古代氏族系譜集成』による[4]

  • 父:中原有象[5]
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:中原貞清(?-1047)[5]
    • 男子:中原師任(983-1062)[5]
    • 男子:中原俊光[6]
    • 男子:中原致仲
    • 男子:中原致行

脚注

  1. ^ 鈴木(1987), p. 11.
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ a b 外記補任.
  4. ^ 鈴木真年『諸系譜』第1冊 十市部首、『中原押小路家譜』東大史料編纂所蔵(宝賀[1986: 1174])
  5. ^ a b c 『系図纂要』
  6. ^ 『仁和寺文書』。『尊卑分脈』『系図纂要』では師任の子とするが、師任の子が妥当か(宝賀[1986: 1178])

参考文献

  • 鈴木理恵「明経博士家中原・清原氏による局務請負と教育」『日本の教育史学』第30巻、教育史学会、1987年、4-23頁、doi:10.15062/kyouikushigaku.30.0_4ISSN 0386-8982 
  • 井上幸治『外記補任』続群書類従完成会、2004年。ISBN 4797107235NCID BA69849980全国書誌番号:20720129 
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会〈上巻、中巻、下巻〉、1986年。 NCID BN00924708全国書誌番号:87008471 
  • 元盛, 惟宗光之, 榊原忠次『勅撰作者部類』江戸後期。 NCID BB09270628https://iss.ndl.go.jp/books/R000000050-I000028973-00