阿部市太郎 (3代)
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3代 阿部 市太郎(あべ いちたろう、天保11年(1840年) - 大正12年(1923年))は、明治維新期の近江商人・実業家。日本の産業と人材の育成に務めた。
生涯
3代目阿部市太郎は、天保11年(1840年)に近江国神崎郡能登川村(現滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。父である2代市太郎は本家に当たる阿部市郎兵衛家第5代当主の次子で、初代市太郎に継子なく養子となった。また、兄は本家の養子となり7代目市郎兵衛となり、弟は市三郎家に養子に入り2代目市三郎となった[1][2]。
3代目家督相続後、明治4年(1871年)本家市郎兵衛家と共に大阪(現大阪市東区)に支店を出し、家業である麻布販売と共に持ち船を回漕して塩・蜜柑を北陸地方・東北地方で売り、帰路北海道に立ち寄り物産を仕入れ大阪で販売した。兄市郎兵衛と同じく産業育成に務め、明治17年(1884年)滋賀県大津に近江麻糸紡織会社を創設し、明治21年(1888年)には金巾製織株式会社設立に兄と共に参加した。会社創業後は兄市郎兵衛が社長、市太郎は役員となった。明治31年(1898年)兄が社長を辞した後市太郎が明治37年(1904年)まで第2代社長となった。阿部一族の本業である繊維事業において、市太郎はよく兄を補佐した[1]。
また、伊藤忠兵衛より、慶應義塾を卒業し近江銀行に勤務していた辻房次郎を紹介され、娘ゑみの婿養子とし、新たに分家を立てた。辻房次郎こと阿部房次郎は、後に金巾製織より発展した東洋紡の社長となり、日本の繊維産業のリーダーとなった。また、金巾製織では田附政次郎・藤井善助等を起用し次世代の人材を育成した。