田村鎮
田村 鎮(たむら やすし[1]、1878 年 - 1942年)は、日本の建築家。陸軍技師として数多くの軍関連施設を手がけた人物。陸軍技師として特に旧陸軍航空飛行隊の施設計画に深く関与していたこと、陸軍技師の中では筆頭格であったことがわかっている。一関藩最後の藩主・田村崇顕の長男。
江戸城跡に立地する旧近衛師団司令部庁舎(現国立近代美術館工芸館、1910、国重要文化財)が代表作。
他に田村が設計に大きく関わったと推定されるものには、樺太守備隊司令官宿舎(現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所、1908)[2]、近衛師団司令部庁舎 (1910 年、現東京国立近代美術館工芸館、重要文化財 )、所沢飛行場飛行船庫(1913年)などが知られる[3][4]。
経歴
東京府芝区(現在の東京都港区)に、華族・田村崇顯の長男として生まれる。1905年 (明治38年)、東京帝国大学建築学科卒業。卒業後は陸軍省に入省。翌年の1906年に技師に任官、2年間樺太守備隊司令部付。1908 年 (明治41年)、樺太守備隊司令部付で陸軍技師専任、陸軍臨時建築部本部付。1910年 (明治43年) 、旧陸軍航空飛行隊の前身である臨時軍用気球研究会御用掛兼勤。その後、建築学会委員にも就任、学会における活動にも積極的にかかわる。
1920年(大正9年)、陸軍技師を退官。東京の青山一丁目に個人事務所を開設[5]。1920年代半ばより藤沢市片瀬の造成地分譲を始めた山本信次郎とは知り合いで、自身も1927年に片瀬に移住し、分譲地の住宅建築のほか、乃木幼稚園 (現・湘南白百合学園幼稚園 ) 、乃木小学校、乃木高等学校、カトリック片瀬教会の設計も手掛けた[4]。
また、建築家と民俗学者の共同による民家研究会「白茅会」にも参画している[6]。
晩年は別荘地文化を形成した[7]片瀬で暮らしたが、鵠沼や片瀬では昭和4年の小田急電鉄片瀬江ノ島線開通を契機に住宅地整備が冷鉱泉付きの住宅地(片瀬西濱分譲地)として本格化。整然とした住宅地の構成、小田急の駅との意匠的調和を図った商店街、片瀬乃木女学校、片瀬カトリック教会などのミッション系施設実現に片瀬の地主でもあり、海軍にも在籍したカトリック教徒である山本信次郎の手引で設計にはいずれも田村が関与している[8][9]。
脚注
- ^ 福島(2012)によると「やすし」、「ひさし」、「まこと」と、既往研究には 3 通りの記載があるという
- ^ 角幸・井澗・石本(2001)
- ^ 前島 (2008)
- ^ a b 宗教遺産の近代的営繕と動態保全の仕組みに関する研究 福島綾子、平成24年度国土政策関係研究支援事業 研究成果報告書
- ^ 前島(2008)。牧田(1997)では田村の本宅があった渋谷で建築事務所を開設したとしていたが田村事務所に勤めた川崎耕二の子息川崎将光によって青山一丁目であるという
- ^ 民家保存の生い立ち(PDF形式 364キロバイト) - 世田谷区
- ^ 岸田劉生『鵠沼日記』(建設社 昭23)
- ^ 牧田(1997)
- ^ 福島(2012)
参考文献
- 角幸博・井澗裕・石本正明(2001)「旧樺太守備隊司令官宿舎(1908)の現況と設計者について」『日本建築学会技術報告集』第14号 日本建築学会pp.331-334
- 前島美知子 (2008) 9140 旧陸軍遺産の成立と陸軍技師に関する研究 : 旧陸軍航空飛行隊黎明期の建築計画と陸軍技師田村鎮 学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠
- 牧田知子(1997)昭和初期の郊外住宅地とその住居に関する研究 東京大学学位論文
- 井澗裕(2000)学位論文日本期の南サハリンにおける建設活動に関する研究
- 福島綾子(2012)宗教遺産の近代的営繕と動態保全の仕組みに関する研究 地域の特性としての宗教遺産継承を目指して 平成24年度国土政策関係研究支援事業 研究成果報告書