コンテンツにスキップ

三好幸信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。エンタシス (会話 | 投稿記録) による 2022年3月18日 (金) 14:49個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
三好幸信
時代 江戸時代前期
生誕 元和元年7月14日1615年9月6日
死没 寛文7年6月23日1667年8月12日[1]
改名 左次郎(幼名)、三好幸信
別名 通称:左馬之介
墓所 顕性山妙慶寺[2]秋田県由利本荘市岩城亀田最上町)
主君 岩城宣隆重隆
出羽国亀田藩
氏族 真田氏→三好氏(秋田真田家)
父母 父:真田信繁、母:隆清院豊臣秀次の娘)
猶父:岩城宣隆
兄弟 阿菊/すへ(石合重定/道定室)[3]、於市、
阿梅片倉重長後室)、あくり(蒲生郷喜室)、
真田幸昌なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)、
真田守信幸信
隆長
テンプレートを表示

三好 幸信(みよし ゆきのぶ)は、江戸時代前期の武士出羽亀田藩士。真田信繁(幸村)の三男。

略歴

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、豊臣方に与した父・真田信繁と兄・幸昌が戦死してから2か月後である元和元年(1615年)7月14日、信繁の三男として京都で生まれた。母は隆清院豊臣秀次の娘)。

出生時の事情から真田姓を名乗ることを憚って、外祖父・豊臣秀次の旧姓である三好姓を称し、三好左次郎と名乗った。

その後、姉・御田姫の嫁ぎ先で、出羽亀田藩主となった岩城宣隆のもとに引き取られた。元服すると三好左馬之介幸信と称し、扶持380石を与えられた。

寛文7年(1667年)6月23日に死去。享年53。

脚注

  1. ^ 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年) 258頁
  2. ^ 岩城家の菩提所。
  3. ^ 小林計一郎 1989, pp.95, 187-188

参考文献

  • 『別冊歴史読本70〈一族シリーズ〉真田一族のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 小林計一郎 編『真田幸村のすべて』新人物往来社、1989年、97頁。ISBN 440401614X