三好幸信
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和元年7月14日(1615年9月6日) |
死没 | 寛文7年6月23日(1667年8月12日)[1] |
改名 | 左次郎(幼名)、三好幸信 |
別名 | 通称:左馬之介 |
墓所 | 顕性山妙慶寺[2](秋田県由利本荘市岩城亀田最上町) |
主君 | 岩城宣隆→重隆 |
藩 | 出羽国亀田藩士 |
氏族 | 真田氏→三好氏(秋田真田家) |
父母 |
父:真田信繁、母:隆清院(豊臣秀次の娘) 猶父:岩城宣隆 |
兄弟 |
阿菊/すへ(石合重定/道定室)[3]、於市、 阿梅(片倉重長後室)、あくり(蒲生郷喜室)、 真田幸昌、なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)、 真田守信、幸信 |
子 | 隆長 |
三好 幸信(みよし ゆきのぶ)は、江戸時代前期の武士。出羽亀田藩士。真田信繁(幸村)の三男。
略歴
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、豊臣方に与した父・真田信繁と兄・幸昌が戦死してから2か月後である元和元年(1615年)7月14日、信繁の三男として京都で生まれた。母は隆清院(豊臣秀次の娘)。
出生時の事情から真田姓を名乗ることを憚って、外祖父・豊臣秀次の旧姓である三好姓を称し、三好左次郎と名乗った。
その後、姉・御田姫の嫁ぎ先で、出羽亀田藩主となった岩城宣隆のもとに引き取られた。元服すると三好左馬之介幸信と称し、扶持380石を与えられた。
脚注
- ^ 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年) 258頁
- ^ 岩城家の菩提所。
- ^ 小林計一郎 1989, pp.95, 187-188
参考文献
- 『別冊歴史読本70〈一族シリーズ〉真田一族のすべて』(新人物往来社、1996年)
- 小林計一郎 編『真田幸村のすべて』新人物往来社、1989年、97頁。ISBN 440401614X。