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石橋八九郎 (1862年生の実業家)

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石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・中村、前名・政太郎[1]1862年9月18日文久2年8月25日[2] - 没年不明)は、日本実業家。石橋合名会社代表社員[1]。族籍は和歌山県平民[1][2]

人物

和歌山県平民・中村六郎の長男[2]。先代八九郎の養嗣子となり前名政太郎を改める[1]。1889年、家督を相続する[2]。銀行会社の重役である[1]。石橋合名会社代表社員、四十三銀行、紀伊貯蓄銀行各取締役、内海紡織監査役などをつとめた[1]。住所は和歌山県海草郡塩津村[1](現・海南市下津町塩津)。

家族・親族

石橋家
  • 養父・八九郎[1](紀州銀行、南陽肥料各取締役)
  • 妻・タミ1865年 - ?、養父八九郎の二女)[1][2]
  • 長男・八九郎1884年 - ?、前名・松太郎[1]、石橋合名会社代表社員)
  • 長女[1]
  • 三女・ユキ1895年 - ?、和歌山、上山市郎兵衛の長男市三郎の妻)[1]
  • [1]
親戚

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第7版』い177頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年8月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』い136頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年8月8日閲覧。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。