ジャン=バティスト・ルソー
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ジャン=バティスト・ルソー(フランス語: Jean-Baptiste Rousseau、1671年4月6日 パリ - 1741年3月17日 ブリュッセル)は、フランス王国の劇作家、詩人。特に寸鉄詩で知られる。
生涯
1671年4月6日、靴屋の息子としてパリで生まれた[1]。十分な教養を受けて早くからニコラ・ボアロー=デプレオーの目に留まり、ボアローはルソーに作家になるよう勧めた[1]。当初、ルソーは劇作家の道を歩んだが、1694年のLe Café、1696年のLe Flatteur、1697年のVénus et Adonis、1700年のLe Capricieuxはいずれも成功せず、1700年にアタッシェとしてタラール公爵とともにロンドンに向かった[1]。そこで文学から出生する道を歩もうと、多くの文学者が通うCafé Laurentに入り浸ったが、風刺詩で中傷的や猥褻な文言を繰り返し書いたことにより、カフェから出禁をくらった[1]。一方、ジャン・ラシーヌ(1639年 - 1699年)とアンドレ・シェニエ(1762年 - 1794年)の間の時期にあって正統な叙情詩が乏しかったため、ルソーは名声を得て1701年に碑文文芸アカデミー入りを果たし、1710年にはアカデミー・フランセーズの会員候補になった[1]。
しかし、またしても中傷的な詩が出回り、ルソーが著者であると噂されると、彼に対する裁判が起こり、1712年には名誉毀損で起訴された[1]。ルソー自身は風刺詩の著者をベルナール=ジョゼフ・ソーランとしたが、裁判に出頭しなかったことから敗訴となり、永久国外追放の判決が下された[1]。1716年に帰国許可が下りたが、完全な名誉回復にはならなかったことからルソーは帰国許可を拒否し、1738年にパリを隠れて一度訪れたほかは外国で過ごした[1]。
海外ではプリンツ・オイゲンなどの有名人がルソーを保護し、1722年にはブリュッセルでヴォルテールと会ったが、ヴォルテールの著作"Le Pour et le contre"をめぐって反目した[1]。
1741年3月17日、ブリュッセルで死去した[1]。死後、ジャン=ジャック・ルフラン・ド・ポンピニャンが頌歌を書き、ブリタニカ百科事典第11版はそれがルソーの作品よりも優れていると評価した[1]。
著作
ルソーの詩作集は初版がゾロトゥルンで出版された後、1723年にロンドンで再版された[1]。
- Le Café(1694年、1幕構成の喜劇)
- Le Flatteur(1696年、演劇)
- Vénus et Adonis(1697年、オペラ)
- Le Capricieux(1700年、喜劇)
評価
ブリタニカ百科事典第11版はルソーを寸鉄詩作者として評価し、アレクシス・ピロン以外でルソーに勝る者はいなかったという[1]。