コンテンツにスキップ

土佐光清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2021年3月13日 (土) 11:37; Bakupodia (会話 | 投稿記録) による版 (関連項目)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

土佐 光清(とさ みつきよ、文化2年11月1日1805年12月21日) - 文久2年11月21日1863年1月10日)は、日本江戸時代後期から幕末にかけて活動した土佐派絵師。土佐派分家の2代目土佐光孚の長男で、弟に土佐光文。幼名は繁松丸、は子纓、号は鏡水。

略伝

[編集]

画法を父に習ってその跡を継ぎ、禁裏画所を務めた。文化11年10月10日1814年11月21日)数え10歳で従六位上豊前介文政4年2月30日1821年4月2日)17歳で正六位下、同11年2月20日1828年4月4日)24歳で従五位下伊勢守天保6年9月28日1835年11月18日)31歳で従五位上、同13年1月22日1842年3月3日)38歳で正五位下嘉永5年7月20日1852年9月3日)48歳で土佐守、嘉永7年1月22日1854年2月19日)50歳で従四位下に叙された[1]

宗家をついだ弟・光文共に多くの画事をこなし、安政度御所造営でも活躍した。病弱の身ながら、父の教えを受けて土佐派の古画を学び、画風の刷新に努めた。文久2年死去、去年58歳。墓所は知恩寺。跡は子の土佐光武が継いだ。

作品

[編集]
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
荒海障子 麻本墨画 衝立障子2面 192.5x135.5(各) 宮内庁京都事務所 1855年(安政2年) 清涼殿弘庇(ひろびさし)北端所在。幕末の作品ではあるが、図様は清少納言の『枕草子』にも記載がある、荒海や足長手長を描く伝統的なもの[2]
昆明池障子(昆明池水戦図・嵯峨野小鷹狩図) 絹本著色 衝立障子2面(各1面) 146.3x237.7(各) 宮内庁京都事務所 1855年(安政2年) 清涼殿弘庇、二間と上御局の境に立てられる衝立障子。やはり平安時代からの伝統的な図様[2]
辰野市図襖・難波江図 絹本著色 襖4面(各2面) 161.0x82.6(各) 宮内庁京都事務所 1855年(安政2年) 清涼殿藤壺上の御局所在[2]
春夏秋冬花鳥図 絹本著色金砂子金泥引 御袋棚小襖8面 80.0x34.7(各) 宮内庁京都事務所 1855年(安政2年) 御常御殿剣璽の間(上段の間東側)北面所在[3]
義家公泰平図 絹本著色 1幅 116.4x50.6 飯田市美術博物館[4]

脚注

[編集]
  1. ^ 松尾芳樹 「近世土佐派記録集(ニ)」『京都市立芸術大学芸術資料館年報』第4号、1994年8月25日。
  2. ^ a b c 『京都御所造営をゆかりの至宝 ー甦る宮廷文化の美ー』第116-120図。
  3. ^ 『京都御所障壁画 ─御常御殿と御学問所─』第5図。
  4. ^ 土佐光清「義家公泰平図」 飯田市美術博物館-美術・人文系コレクション選集-コレクション選集-井村コレクション

参考文献

[編集]
  • 京都国立博物館 宮内庁京都事務所 京都新聞社編集 『京都御所障壁画 ─御常御殿と御学問所─』 京都新聞社、2007年1月6日
  • 京都国立博物館編集 『特別展 御即位二十年記念 京都御所造営をゆかりの至宝 ー甦る宮廷文化の美ー』 京都新聞社 NHK NHKプラネット、2009年1月10日

関連項目

[編集]