土佐光清
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土佐 光清(とさ みつきよ、文化2年11月1日(1805年12月21日) - 文久2年11月21日(1863年1月10日)は、日本の江戸時代後期から幕末にかけて活動した土佐派の絵師。土佐派分家の2代目土佐光孚の長男で、弟に土佐光文。幼名は繁松丸、字は子纓、号は鏡水。
略伝
[編集]画法を父に習ってその跡を継ぎ、禁裏画所を務めた。文化11年10月10日(1814年11月21日)数え10歳で従六位上・豊前介、文政4年2月30日(1821年4月2日)17歳で正六位下、同11年2月20日(1828年4月4日)24歳で従五位下・伊勢守、天保6年9月28日(1835年11月18日)31歳で従五位上、同13年1月22日(1842年3月3日)38歳で正五位下、嘉永5年7月20日(1852年9月3日)48歳で土佐守、嘉永7年1月22日(1854年2月19日)50歳で従四位下に叙された[1]。
宗家をついだ弟・光文共に多くの画事をこなし、安政度御所造営でも活躍した。病弱の身ながら、父の教えを受けて土佐派の古画を学び、画風の刷新に努めた。文久2年死去、去年58歳。墓所は知恩寺。跡は子の土佐光武が継いだ。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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荒海障子 | 麻本墨画 | 衝立障子2面 | 192.5x135.5(各) | 宮内庁京都事務所 | 1855年(安政2年) | 清涼殿弘庇(ひろびさし)北端所在。幕末の作品ではあるが、図様は清少納言の『枕草子』にも記載がある、荒海や足長手長を描く伝統的なもの[2]。 | |
昆明池障子(昆明池水戦図・嵯峨野小鷹狩図) | 絹本著色 | 衝立障子2面(各1面) | 146.3x237.7(各) | 宮内庁京都事務所 | 1855年(安政2年) | 清涼殿弘庇、二間と上御局の境に立てられる衝立障子。やはり平安時代からの伝統的な図様[2]。 | |
辰野市図襖・難波江図 | 絹本著色 | 襖4面(各2面) | 161.0x82.6(各) | 宮内庁京都事務所 | 1855年(安政2年) | 清涼殿藤壺上の御局所在[2]。 | |
春夏秋冬花鳥図 | 絹本著色金砂子金泥引 | 御袋棚小襖8面 | 80.0x34.7(各) | 宮内庁京都事務所 | 1855年(安政2年) | 御常御殿剣璽の間(上段の間東側)北面所在[3] | |
義家公泰平図 | 絹本著色 | 1幅 | 116.4x50.6 | 飯田市美術博物館[4] |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 京都国立博物館 宮内庁京都事務所 京都新聞社編集 『京都御所障壁画 ─御常御殿と御学問所─』 京都新聞社、2007年1月6日
- 京都国立博物館編集 『特別展 御即位二十年記念 京都御所造営をゆかりの至宝 ー甦る宮廷文化の美ー』 京都新聞社 NHK NHKプラネット、2009年1月10日