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跡部昌忠

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跡部昌忠
時代 戦国時代江戸時代初期
生誕 天文13年(1544年
死没 慶長11年11月12日1606年12月11日
改名 九郎(幼名)→昌忠
官位 右衛門尉
主君 武田勝頼徳川家康
氏族 跡部氏
父母 父:跡部勝忠
幸次
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跡部 昌忠(あとべ まさただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将甲斐武田氏徳川氏の家臣。

略歴

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天文13年(1544年)、跡部勝忠の長男として生まれる。武田勝頼に仕え、使番12人衆・近習番頭などを歴任した。武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、侍大将として同心24名を与えられた。本能寺の変織田信長が死去し、甲斐国徳川領になると桜井信忠石原昌明小田切茂富と共に徳川四奉行の1人としてその支配に携わり、寺社宛の禁制などに多く名を残している。

慶長11年(1606年)11月12日に死去。享年63。子孫は江戸幕府旗本として存続した。

なお、武田家中には同姓同名で修理亮を称した別人の跡部昌忠がいる。