ジャービス・マッケンティー
ジャービス・マッケンティー Jervis McEntee | |
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生誕 |
1828年7月14日 アメリカ合衆国、Rondout |
死没 |
1891年1月27日 アメリカ合衆国、ニューヨーク州 |
ジャービス・マッケンティー(Jervis McEntee、1828年7月14日 - 1891年1月27日)はアメリカ合衆国の画家である。フレデリック・エドウィン・チャーチの弟子で、ハドソン・リバー派の画家の一人に数えられる。ハドソン・リバー派の画家の多くと友人で、19世紀後半の"Gilded Age"(「金ぴか時代」)と呼ばれる時代とその後の時代のニューヨークの画家に関する記録を残したことでも知られる。
略歴
[編集]ニューヨーク州のキングストン近くの村ロンダウト(Rondout)に生まれた.[1]。ユニバーサリスト教会(Universalist Church of America)の運営する学校(Clinton Liberal Institute)で学んだ[2][3]。1850年にニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインの展覧会に初めて出展した。翌年、画家として実績を上げて始めていたフレデリック・エドウィン・チャーチ(1826-1900)の弟子となった。チャーチとは生涯を通じての友人であったが、マッケンティーの画家としての評判や収入はチャーチの地位に及ぶことはなかった。チャーチに学んだ後、実業家になろうとしたが、成果が得られず3年ほどで商売はあきらめた。ニューヨークの芸術家のために1857年に建てられた「10番街のスタジオビル」の利用者の一人となった[1][4]。この建物にはチャーチやロックウッド・デ・フォレスト、アルバート・ビアスタットらも利用した。この建物の利用者の多くが、独身者でスタジオに通うことが多かったので、マッケンティーの妻の明るく世話好きな性格もあって、マッケンティーのスタジオは、芸術家の集まるサロンになった[1]。マッケンティーが親しくなったハドソン・リバー派の画家には、サンフォード・ロビンソン・ギフォード、ワージントン・ウィットレッジ、ジョン・ファーガソン・ウィアーがいて、人物画、風俗画を描いたイーストマン・ジョンソンとも友人になった[5]。
1860年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの準会員となり、1861年に正会員になった。1869年にはヨーロッパを旅し、主にイタリアで作品を描いた。
マッケンティーの風景画は暗く、淡い色調が特徴であった。
作品とは別に、1870年代から没するまで、詳細な日記を残していて、当時の美術界に関する貴重な資料となっている。
作品
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イタリアの風景 (1868)
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「夕暮れ」(1862)
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マウント・デザート島
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ハドソン川
参考文献
[編集]- ^ a b c “The Jervis McEntee papers”. Archives of American Art. Smithsonian Institution. 21 August 2013閲覧。
- ^ “Jervis McEntee Diary, 1844–1845”. Finding Aids. Syracuse University Libraries. 21 August 2013閲覧。
- ^ “A journal of facts, folly & fun 1845 Oct 9-1846 Sep 29.”. Department of Special Collections and University Archives. University of Tulsa, McFarlin Library. 21 August 2013閲覧。
- ^ Wilson, J. G.; Fiske, J., eds. (1900). . Appletons' Cyclopædia of American Biography (英語). New York: D. Appleton.
- ^ Stein, Paul G.. “A Hudson River School Diary”. Archives of American Art Blog. Smithsonian Institution. 21 August 2013閲覧。