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稲田植乗

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稲田 植乗(いなだ たねのり、文政8年3月20日[1]1825年5月7日) - 万延元年8月14日[1]1860年9月28日))は、徳島藩筆頭家老。淡路洲本城代稲田家14代当主。

概要

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子は稲田邦植稲田邦衛、ヤウ(酒井忠匡室〔離縁〕、北海道大学初代総長佐藤昌介[1])。通称九郎兵衛。

生涯

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文政8年(1825年)徳島藩蜂須賀家家老稲田芸植の子として生まれる。弘化4年(1847年)父芸植の死去により家督相続。藩主蜂須賀斉裕に仕え、洲本城代を務める。嘉永7年(1854年)藩命で海防の為に由良、岩屋に砲台を建設する。安政年間(1854年 - 1859年)に南薫風尾方長栄工藤剛太郎等家臣を京都に派遣して情勢を探索させた。彼ら稲田家家臣は勤皇の志士と交流し、稲田家は幕末に動皇派として独自の行動をとることとなる。万延元年(1860年)8月14日死去。享年36。子の小八郎(邦植)は幼いため従兄弟の植誠が養子となって家督を相続した。

脚注

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  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、178-179頁。

参考文献

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