鬼虎

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鬼虎(うにとら)は、16世紀初めの与那国島の首長である。

概要[編集]

主に「忠導氏家譜正統」に基づく。ただし年代について問題がある。家譜には嘉靖年間(1522~)とあるが、稲村賢敷はこれを正徳年間の誤記であり、かつ正徳8年(1513年)以前であるとする。理由として概略次の点が説明されている。鬼虎征伐に参加した、城辺の豪族、金志川豊見親金盛[1]、及びその弟ナキタツという者がいる。金志川兄は鬼虎征伐の帰途、多良間で病死(宮古島旧記)、或いは謀殺(伝説)された。その後、弟が金志川豊見親となった。そして「球陽(176号)」には、尚真王代37年(1513年)に、金志川豊見親ナキタツが中山からの帰りに大般若経六百巻を買った記事が載る。つまり金志川兄は、1513年より前に死んでないと辻褄が合わないのである。さらに嘉靖年間には仲宗根豊見親は高齢者で、戦闘の指揮をとるのは難しい。[2]。以上の稲村の指摘に加えて、次の問題点もある。鬼虎征伐には、金志川兄弟と同郷、城辺は砂川のあふがまという美人も参加していたが、彼女は実は「八重山入の時のあやご」にも兄弟と共に名前があり、アカハチ征伐にも参加している。つまりこの「美人」あふがまは、嘉靖年間という説を真に受けた場合、鬼虎征伐時、40かそれ以上の年齢という事になってしまうのである。


鬼虎は元々宮古は狩俣の生まれであった。5歳の頃には既に5尺の身長があった。この頃宮古島に飢饉があった。ちょうど与那国の人が商売に来ており、鬼虎の形相を見て只者ではないと思い、米一斗で買って連れ帰った。長じて鬼虎は身長一丈五寸、勇力無双、智謀に長けた豪傑となり、与那国島の首長となった。

さて、与那国の形勢を見るに、四方は崖が屏風のように切り立ち、周囲には岩礁が隠れていた。津口は南に一か所あるだけで、風波が静かな時だけ出入りできた。一人で万を相手にして守りきる事のできる地形で、これを頼んで鬼虎は王化に従わなかった。先の八重山退治の時も兵船を派遣して攻めさせたが、津口に入る事も出来ずに虚しく帰還した。ここに至って、尚真王は空広に名剣治金丸を貸し与え[3]、鬼虎征伐を命じた。

宗徒の勇士、空広の息子である金盛、祭金、チリマラの三兄弟、金志川金盛とナキタツ兄弟、さらに精兵24人、及び美女4名、住屋大阿智城、砂川恋種司、伊良部伊安登之於母婦、砂川アフガマ[4]。以上が空広軍の陣容であった。彼らは与那国に至ったが、以上の地理的条件を鑑み、軍勢を無事上陸させるため策略を用いた。すなわちまず美女が赴き、「宮古は飢饉で大変です。同郷のよしみで助けてください」等々と鬼虎を泣き落として取り入り、酒を勧めて大いに酔わせた。空広はこれに乗じて入港し、直ちに攻め入った。しかし鬼虎は丈余の大角棒を振るって迎え撃ち、空広はこれを避けようとしてつまづき、深田に倒れ込んでしまった。鬼虎これを見て曰く「汝ら今日、釜中の魚となる。如何に飛び出し得るか」その言葉も終わらぬうちに、金盛兄弟と金志川兄弟が左右から襲いかかるも、鬼虎の威はなお迅雷のごとく、引き下がってしまう。その時、空広が躍り出て治金丸を一閃、鬼虎の右膝を薙ぎ落とし、嫡男金盛が走ってきて首を取った。其の他の賊は皆降参した。

また、豊見親は、鬼虎の娘を妻にする約束で宮古に連れ帰ったが、実際には下女として扱われたので娘は自害したと「八重山乙女のあやご」にいう。

多良間島の「多良間八月踊り」ではこの物語が、「忠臣仲宗根豊見親組」として演じられている。

脚注[編集]

  1. ^ 金盛の豊見親号の根拠は「球陽(162号)」及び「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」
  2. ^ 稲村pp.224
  3. ^ 治金丸は借りた事が明記されている。元々は空広のものだが、既に献上していたため。
  4. ^ 本項目の前版では「アフガマ、コイガマの姉妹が生活の保障と引き換えに従軍した」となっているがこれは多良間の「仲宗根豊見親組」での設定である。恐らくコイガマは砂川恋種司を元にした人物である。ただし前版では何故か彼女らが多良間出身という事になっていたが、意味不明な記述。多良間の踊りでも砂川出身である事は明言されているはずである。

参考文献[編集]

  • 稲村賢敷「宮古島庶民史」三一書房、1972年
  • 平良市編纂委員会「平良市史・資料編1」平良市、1981年。pp.80「忠導氏家譜正統」