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飛び安里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

飛び安里(とびあさと)とは、17世紀琉球王国で人力オーニソプターを作って飛行したと伝えられる人物[1]。代々花火師であった安里家の三代目・安里周當(しゅうとう)が「飛び安里」であるという説と、四代目の安里周祥(しゅうしょう)が「飛び安里」であるという二つの説がある。本項では両説を併記する。1999年および2002年には、沖縄で彼のオーニソプターのレプリカが製作された。1999年のものは有人飛行に成功した[2]

琉球方言における発音は「とぅびあさと」に近い。[3]

安里周當

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安里周當(周当)の飛行機械は、のような機体で、妻が命綱を持ち南風原津嘉山で飛んだという。1825年没。[4]

安里周祥

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出自と経歴

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安里周祥は1768年に首里の鳥小堀村(現・鳥堀町)で、代々花火師であった安里周當の四男として生まれる。のち越来村胡屋に居住。花火師としては1801年に冊封使を歓待するため仕掛け花火を披露し、時の国王(尚温王)から恩賞を受けている。この時の仕掛け花火は「松竹梅」の文字が浮き出るものだったという。[4]

飛行

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安里周祥は泡瀬海岸に面した断崖から飛び立った、または那覇市南東数kmの津嘉山で飛行したとの二説がある。飛行距離などの詳細は不明であるが、1780年頃には津嘉山の仕立森(現・津嘉山小学校)や高津嘉山から150~200メートル飛行したと伝えられる[1]。正確な年代は不明とする資料が多いが、斎藤茂太『飛行機とともに』では彼の飛行を1787年としている。そして周祥は「空を飛んで、王の恩賞にあずかった」[5]とされる。

彼のオーニソプターは、弓の弾力性を補助として脚力で羽ばたく仕組みであった。一部に鳥の羽毛が使用されていたとも言われる[6]。安里周祥の書いた設計図は子孫に伝えられたが、経年劣化および火事による焼失で、戦前の時点ですでに全てが失われていた[7]

検証と命名案

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脚注

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注釈

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出典

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  1. 1 2 3 飛び安里 初飛翔顕彰記念碑”. 南風原町魅力発信サイト (2015年1月1日). 2025年5月28日閲覧。
  2. 「飛び安里久レプリカ制作/南風原”. 琉球新報 (2002年9月27日). 2015年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月31日閲覧。
  3. 斎藤茂太『飛行機とともに - 羽ばたき機からSSTまで』中公新書、1972年
  4. 1 2 同書
  5. 同書19ページ
  6. 竹内正虎『日本航空発達史』相模書房、1940年
  7. 同上
  8. 飛び安里 初飛翔顕彰記念碑”. 南風原町観光協会 (2013年11月13日). 2025年5月28日閲覧。
  9. 1 2 飛び安里とは”. 南風原町観光協会 (2015年1月31日). 2025年5月28日閲覧。
  10. 飛び安里久レプリカ制作/南風原”. 南風原町観光協会 (2002年). 2025年5月28日閲覧。
  11. 「飛び安里空港」を那覇空港の愛称として求める要請決議”. 南風原町議会 (2020年6月19日). 2025年5月28日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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