戸矢子有綱

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戸矢子有綱
戸矢子有綱像(大悲山平等院大安寺所蔵)
時代 平安時代末期から鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 文治2年6月1日1186年6月19日[1]
別名 足利七郎
神号 鞍掛大明神[1]
戒名 忠正院殿前白有綱大禅定門[1]
墓所 栃木県栃木市千塚町724の大悲山平等院大安寺有綱墓、佐野市戸室町1524の鞍掛神社[1]
官位 従五位下、讃岐守、佐野中宮亮
氏族 藤姓足利氏
父母 足利家綱
兄弟 足利俊綱戸矢子有綱深栖郷綱利根成次西場成実山上高綱
戸矢子尼
佐野基綱園部行綱佐野高綱阿曽沼広綱木村信綱柏木有房壬生親綱鍋山有利那須綱吉堀川基親白山賢厳、加賀局(島津忠佐の妻)
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戸矢子 有綱(へやこ ありつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。通称は足利七郎足利有綱とも呼ばれる。鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏庶流で、佐野氏阿曽沼氏木村氏などの祖。

寛政重修諸家譜源平盛衰記など一部資料では戸矢古部矢古などの表記も見られる。戦場で射抜かれた眼を自分で洗ったと言われている[2]

経歴[編集]

覚仁の跡を継ぎ、東大寺領だった戸矢子保(現・栃木市藤岡町部屋から鍋山町梅沢町大久保町尻内町都賀町木梓町千塚町辺り[3]保司となり、蓬莱山(栃木市鍋山町根古谷)に不摩城(秋葉城、部屋子城とも)を築く[4]

宇治平等院の戦いでは、兄足利俊綱の子・忠綱と共に源頼政を攻めて平氏に味方したが[5]野木宮合戦では子の基綱広綱と共に源氏に味方し、俊綱と忠綱を敗走させた[6]

文治2年6月1日1186年6月19日)、源姓足利氏足利義兼と赤見山(佐野市赤見町)で戦うが、その最中に山鳥の矢で左眼を射られて敗走。途中の井戸で目の傷を治療したものの、石室(現・佐野市戸室町)に参籠した有綱は、老体のため馬の鞍に腰をかけて自害した[7]。墓は当初没地に建立されたが、大永3年(1523年)に和尚尊永によって領有地の戸矢子保があった大悲山平等院大安寺に移転された。

戸矢子保は妻の戸矢子尼、娘の加賀局を経た後に島津氏島津忠佐によって領有された[8][9]。また没地の石室は有綱の戸矢子から一字取って戸室と改名[2]、後にこの地は有綱の末裔である佐野氏庶流の親綱によって領有され、彼は戸室氏を称するようになった。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『田原族譜』第4版 山士家左伝
  2. ^ a b 佐野市 2017, 佐野市の紹介-地名のいわれ-戸室.
  3. ^ 栃木市史編さん委員会 1985, p. P291.
  4. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 2016, 戸矢子保(古代〜中世) - 解説ページ.
  5. ^ 栃木市史編さん委員会 1985, p. 284.
  6. ^ 菅田山光得寺 2020, 阿曽沼 (浅沼) 一族 足利の昔 (5).
  7. ^ 栃木県佐野市戸室町「御目洗井戸(おめど)」現地案内板
  8. ^ 平凡社地方資料センター 1988, p. 656, 676.
  9. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1984, p. 807.

参考文献[編集]

  • 山士家左伝 編『田原族譜』東明会、1883年9月。 NCID BA85281841https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780477 
  • 河野守弘 編『下野国誌. 巻之11』佐藤三一郎、1893年10月。 NCID BB19199224https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763936 
  • 佐野市観光立市推進課. “佐野市の紹介-地名のいわれ-戸室”. 佐野市ホームページ. 佐野市役所. 2017年11月23日閲覧。
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会. “戸矢子保(古代〜中世) - 解説ページ”. JLogos. 角川書店. 2016年6月21日閲覧。
  • 栃木市史編さん委員会 編『栃木市史 史料編 古代・中世』栃木市、1985年3月。 NCID BN03381744 
  • 平凡社地方資料センター 編『栃木県の地名 日本歴史地名大系 9』平凡社、1988年8月。ISBN 4582490093NCID BN02454037 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 9 栃木県』角川書店、1984年12月。ISBN 4040010906NCID BN00734098 
  • 阿曽沼 (浅沼) 一族 足利の昔 (5)”. 菅田山光得寺公式ホームページ. 菅田山光得寺 (2020年9月21日). 2023年2月11日閲覧。