赤膚焼

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赤膚焼(19世紀初期)

赤膚焼(あかはだやき)は奈良県奈良市大和郡山市に窯場が点在する陶器である。

概要[編集]

草創は判然としないが、桃山時代大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。

江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。小堀政一(遠州)が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。

文政年間には五条山に三窯あり「東の窯」「中の窯」「西の窯」と呼ばれていた。1884年(明治17年)に出版された『大和国名流誌』には、赤膚焼の陶工として山口甚次郎、古瀬治平、井上忠次郎の3人の名前が記されている。「西の窯」は明治12年に三代惣兵衛が没し、後を継いだ忠次郎のころ明治14年の末に他家へ同居した記録が残っているがしばらくして廃窯されたようである。「東の窯」は明治23年石川寅吉が継ぐ記録が残っているが、寅吉没後「東の窯」は廃窯されたようである。第一次世界大戦後の不況の余波を受け昭和初期には古瀬家の「中の窯」を残すのみとなった。昭和16年7月、銀座松屋にて「赤膚山元窯作品展示会」が開かれているが、当時の説明でも『「中の窯」只一つしか残存して居ない。』と書かれている。 現在、残された「中の窯」の大型登り窯は、登録有形文化財として古瀬堯三(ふるせぎょうぞう)窯で見学することができる。

赤膚焼と称されるものは数多くあるが、「東の窯」「西の窯」は現存していない。そのように称しているものは、ほぼ現代陶芸作家による詐称であるので購入する際には注意したい。

赤膚焼は名の如く、器肌に赤みを帯びている。名の由来はその器肌という説と地元の地名から来たという二説がある。その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出している。 赤膚焼には裏に「赤膚山」という刻印がつけられている。江戸時代から続く窯元である古瀬堯三窯のものには「赤膚山」の刻印のみ見られる。その他の窯のものには「赤膚山」または「赤ハタ」の刻印以外に作家印や窯印がつけられている。

現在、奈良県の伝統工芸として六つの窯がある。

  • 大塩昭山(奈良市)
  • 大塩玉泉(奈良市)
  • 大塩正人(奈良市)
  • 古瀬堯三(奈良市)
  • 小川二楽(大和郡山市)
  • 尾西楽斎(大和郡山市)

大塩姓が三軒あるが、それらはすべて親戚関係にある。昭和になって開かれた窯であることが名前の由来となった大塩昭山、その後独立した大塩玉泉、大塩正人が続く。


関連項目[編集]