許田重発
![]() | この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2014年2月) |
許田 重発(きょだ じゅうはつ、1887年 - 1968年)は、那覇手中興の祖といわれる東恩納寛量の高弟の一人であり、東恩流の開祖。
経歴[編集]
1887年(明治20年)、許田重興の四男として生まれた。幼名は小樽小(スターグヮー)といい、成人してからは小樽兄(スターチ)のあだ名で呼ばれた。許田の母は「東の東恩納」こと那覇手の東恩納寛裕の親戚筋の出身であった。
許田は父の知人で「西の東恩納」こと那覇手の大家・東恩納寛量に15歳の頃から唐手(現・空手)を師事した。また「東の東恩納」こと東恩納寛裕にも師事した。
許田は師範学校を卒業後、成人してからは教師の道を歩み、泊尋常小学校などに勤務する傍ら、唐手の修行を続けた。後に、許田は沖縄県立第二中学校(現・那覇高等学校)の唐手部初代師範をつとめた。
1923年(大正12年)頃、許田は「空手研究倶楽部」で宮城長順、摩文仁賢和、本部朝基、呉賢貴などと共に研究し、東恩納寛量の型だけに拘らず、あらゆる空手の技と道を極めることに積極的に取組んだ。[1]
1934年(昭和9年)、大日本武徳会沖縄支部の唐手教師嘱託に任命された。
1939年(昭和14年)6月、大日本武徳会沖縄支部武徳殿開殿式において大日本武徳会長、林銑十郎(はやし せんじゅうろう)陸軍大将以下関係者を招いて行われた記念演武会で「スパーリンペイ」の型を演武[1]。この演武の前には宮城長順が「轉掌」の型を演武している。
戦中、許田は大分県竹田市に疎開し[注釈 1]、戦後は、竹田でも近所の若者に指導しおり、福岡の上原優希徳(三郎)もサンチンの指導を受けに行っている。
1968年(昭和43年)別府市で死去。享年81。許田の弟子には、伊良波長幸、村上勝美、許田重光、大西栄三[注釈 2]神崎和也などがいる。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 村上勝美『空手の心と技』新人物往来社 ISBN 4404017979
- 空手道と琉球古武道 村上勝美著
- 空手の心と技 村上勝美著
- 拳道学 大西栄三著