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英露協商 (1899年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

英露協商(えいろきょうしょう)、ないし、スコット=ムラヴィエフ協定(スコット=ムラヴィエフきょうてい、英語: Scott-Muraviev Agreement)は、日清戦争後、清朝末の中国が列強によって半植民地化される状況の中で、イギリスロシア帝国の間で、イギリスが揚子江(長江)流域に、ロシアが万里の長城以北を勢力圏を設定し、相互の勢力圏を尊重することを取り決めて結ばれた協定[1]

当時の勢力圏は鉄道敷設権を中心として形成されており、英露協商の具体的内容は、ロシアは揚子江流域において自ら鉄道敷設権を求めず、また、他国の同様の企てを支援しないことを約束し、イギリスは満州において同様の対応を取ることを取り決めたものであった[2]。交渉は、サンクトペテルブルクでおこなわれ、1899年4月29日に協定が調印された[3]。調印したロシアの外務大臣ミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィエフ英語版と、イギリスの駐露大使チャールズ・スコットの名から[3]スコット=ムラヴィエフ協定とも称された[1]

この英露協商の締結は、それまで、清朝政府の主権を尊重し、列強が協調してロシアの南下に対抗するという支那保全論の立場をとっていたイギリスが、支那分割論に舵を切った出来事と受け止められた[1]

後に1907年英露協商 (英語: Anglo-Russian Entente, Anglo-Russian Convention) が結ばれて以降は、単に「英露協商」という場合はもっぱらそちらを指すようになった[4]

脚注

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  1. ^ a b c 山田良介「東亜同文会の中国「保全」論に関する一考察 -『東亜時論』における議論を中心に」『九大法学』第85号、九大法学会、2003年、170頁。  NAID 110006607257
  2. ^ “英露協商の説眞か(支那鐡道論第一)”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 2. (1899年5月3日). "其の協商の主旨ハ、露國が揚子江沿岸の地に於て鐡道の布設權及び之に類する利益の譲與を得んと企て若くハ他の企てを助けざると同時に英國も亦満洲地方に於て同一の條約を具したる約束を為すに在りしとぞ。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ a b “英露協商の別消息”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 2. (1899年5月4日). "清國に對する英露二國の協商ハ、曩に露都に於ておいて露國外務大臣と英國駐露大使との間に妥協中なりしが去月廿九日を以って協商成立し二國の全權ハ之に調印を終へ、英國首相ハ之を公言するに至りたれども ..."  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ コトバンクで「英露協商」を検索してヒットする、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典デジタル大辞泉百科事典マイペディア大辞林 第三版日本大百科全書(ニッポニカ)精選版 日本国語大辞典世界大百科事典の関連記述は、いずれも、もっぱら1907年の英露協商だけに言及するものとなっている。(『英露協商』 - コトバンク