石野広通
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石野 広通(いしの ひろみち、享保3年5月9日(1718年6月7日) - 寛政12年5月21日(1800年7月12日))は、江戸時代中後期の旗本・歌人・国学者。旗本で大番役をつとめた石野広包の子。本姓は中原、通称は平蔵。号は大沢(だいたく)・蹄渓・花月堂・通翁。家禄300石[1]。官途は従五位下遠江守。妻の勇子も「霞関集」に納められている歌人。
江戸に生まれた。冷泉為村・冷泉為泰父子に師事して和歌を学び、ほかに武者小路公野・高松重季にも学んだ。また、有職故実を伊勢貞丈に学んだ。田安宗武・萩原宗固・賀茂真淵・内山椿軒と合わせて明和六歌仙といわれ、内藤正範・横瀬貞臣と合わせて近世武家の三歌人といわれた。納戸番、膳奉行、納戸頭を歴任し、天明元年(1781年)に佐渡奉行となる。在任期間に天明の大飢饉が起こり、相川市中の治安強化を目的としそれまで47箇所あった木戸を73箇所に増設、また夜番(自身番)を増強するなどした。天明4年(1784年)においては特に深刻で相川にある御蔵詰米が不足となり、諸役人の扶持米支給を止めて銭で支給した。また、食料の島外持ち出しを禁止し食料確保を図った。寛政3年(1791年)に普請奉行となる。寛政12年(1800年)、83歳で没した。墓所は東京都中野区万昌院(旧牛込築土八幡町)、諡名は如是縁斎大澤雲岩蹄渓居士。
略歴
[編集]- 延享3年(1746年)冷泉為村に入門し和歌を学ぶ。
- 宝暦元年(1751年)「沢水編」が成立した。
- 宝暦6年(1756年)「千首和歌」が成立した。
- 宝暦11年(1761年)「うきくさ」が成立した。
- 明和3年(1766年)「軒并」(のきならび)が成立した。
- 明和5年(1768年)「広道百首和歌」が成立した。江戸堂上派の人々の歌を中心に千余首を私選した「霞関集編」を刊行した。
- 明和6年(1769年)「為村卿影前当座」が成立した。
- 明和7年(1770年)「大沢文稿」(だいたくぶんこう)が成立した。
- 明和8年(1771年)「賀筵答和和歌」が成立した。
- 天明元年(1781年)4月15日に佐渡奉行となる。
- 天明2年(1782年)佐渡の地誌「佐渡事略」をまとめる。
- 天明6年(1786年)普請奉行となり、従五位下遠江守に叙任される。
- 天明8年(1788年)「五百四十首」を刊行した。
- 寛政3年(1791年)普請奉行として江戸の上水道調査を行った折の報告書を「上水記」としてまとめる。
- 寛政6年(1794年)「和歌感応抄」が成立した。
- 寛政8年(1796年)「後楽園に入侍る記」が成立した。
- 寛政9年(1797年)「絵そらごと」が成立した。
- 寛政11年(1799年)「霞関集編」の再撰本を刊行した。
脚注
[編集]- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、103頁。
参考文献
[編集]- 越佐人物誌(牧田利平編 野島出版 昭和47年)
- 日本人名大事典(講談社)
- 国学者伝記集成・第1巻・続編
- 国書人名辞典・第1巻
- 朝日日本歴史人物事典