百済王善光
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(百済王禅広から転送)
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 持統天皇7年(693年)正月 |
別名 | 扶余勇、禅広王、余禅広 |
官位 | 正広肆、贈正広参 |
主君 | 舒明天皇→皇極天皇→孝徳天皇→斉明天皇→天智天皇→天武天皇→持統天皇 |
氏族 | 百済王氏 |
父母 | 父:義慈王 |
兄弟 | 孝、泰、隆、演、扶余豊璋 |
子 | 昌成 |
百済王 善光(くだらのこにきし ぜんこう)は、飛鳥時代の百済王族。名は扶余勇・禅広・余禅広など複数が確認されている。百済の第31代国王・義慈王の子。冠位は正広肆、贈正広参。
経歴
[編集]舒明朝に百済国王・義慈王によって兄・豊璋と共に百済から人質に出され宮家に近侍した。その後、斉明天皇6年(660年)の百済の滅亡や、天智天皇元年(662年)の豊璋の百済帰国、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いなどがあったが、善光は帰国せず日本に留まる[1]。白村江の戦いにより帰国が不可能となった善光は、天智天皇3年(664年)居住地を難波に定められた[2]。
天武天皇4年(675年)元旦の儀では、新羅仕丁や舎衛女などとともに薬・珍物を献上している[3]。朱鳥元年(686年)天武天皇の葬儀において、孫の良虞が善光の代理として誄を宣べている[4]。
持統朝に入ると百済王の氏姓を与えられると共に[1]、持統天皇5年(691年)までに正広肆(のちの三位相当)の冠位を受けており[5]、日本において廷臣化し、既存の主要豪族並の待遇を受けていた様子が見られる。なお同年には加封100戸を受け既存分と合わせて封戸200戸を与えられた[6]。持統天皇7年(693年)正月に正広参の贈位と賻物を受けており[7]、この少し前に没したと思われる。