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- 司馬(しば)は、古代中国の官職名である。王朝によりその職務の範囲は異なる。 西周が始まった時、三公を最高官とし、それに次ぐ位として六卿を置き、特に司徒、司馬、司士、司空、司寇を五官と呼んだ。司馬は軍政と軍務を司った。春秋戦国時代、楚は「令尹」と「大司馬」の二職を置いた。《春秋左氏伝》によれば「司馬…4キロバイト (771 語) - 2023年12月22日 (金) 19:54
- 」(しんにょう)の点が二つです。 司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、本名:福田 定一〈ふくだ ていいち〉、1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。筆名の由来は「司馬…140キロバイト (20,065 語) - 2024年10月13日 (日) 02:50
- 兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(中国語版)(季達)・司馬恂(中国語版)(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた。妻に張春華、息子に司馬師・司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。 司馬…40キロバイト (7,187 語) - 2024年10月18日 (金) 17:07
- 司馬 朗(しば ろう、171年 - 217年)は、後漢時代末期の政治家。字は伯達。秦末の殷王司馬卬の末裔。司馬防の長男。司馬懿・司馬孚・司馬馗らの長兄。 彼は厳格な父の司馬防に厳しく育てられたという。彼が9歳になった時のことである。父の友人が父の字を呼んだので、司馬…4キロバイト (830 語) - 2024年1月4日 (木) 19:31
- 司馬 穎(しば えい、279年 - 306年10月)は、西晋の皇族で八王の乱の八王の一人。字は章度。武帝司馬炎の第19子。恵帝司馬衷の異母弟で、懐帝司馬熾の異母兄。母は程才人。 当時帝位を簒奪し専横を振るっていた大叔父の司馬倫を打倒した功績で、従兄弟であった司馬…22キロバイト (4,711 語) - 2024年3月6日 (水) 02:41
- 大司馬(だいしば)は、中国の王朝の官職の一つ。主に軍事を取り仕切り、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。 春秋戦国時代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。…15キロバイト (584 語) - 2024年5月19日 (日) 13:38
- 司馬 顒(しば ぎょう、? - 306年12月)は、西晋の皇族で八王の乱の八王の一人。字は文載。祖父は司馬懿の弟である安平王司馬孚。父は太原王司馬瓌(中国語版)。 恵帝の弟である司馬乂を排斥し、その下の弟である司馬穎と共に朝廷を壟断したが、司馬穎が王浚・司馬…16キロバイト (3,551 語) - 2024年1月4日 (木) 19:20
- 司馬懿の弟司馬孚だといわれている。歴史書『資治通鑑』の編者として著名。政治面では旧法派の領袖として王安石ら新法派と対立した。 宝元元年(1038年)に進士となる。高祖父の司馬林も、曾祖父の司馬政も、祖父の司馬炫も進士で、父の司馬池は兵部郎中であった。養子に司馬康(兄の司馬…7キロバイト (1,183 語) - 2024年6月12日 (水) 01:07
- 司馬懿や伯父司馬師の就いた官職を歴任した。 咸熙元年(264年)に司馬昭が晋王になると、その後継者に指名された。当初、司馬昭は三男の司馬攸を後継者にと考えていた。これは司馬攸が司馬師の養子となっていたためであり、司馬昭は兄の方の家が司馬…15キロバイト (2,725 語) - 2024年10月18日 (金) 10:07
- 司馬 芝(しば し、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家。字は子華。司隸河内郡温県の人。子は司馬岐。孫は司馬肇。 当初は無名だったが、楊俊からは「早くから名を挙げた点では(族弟の)司馬朗に及ばないが、実際は彼よりも優れている」と評価された。若い頃、動乱を避けて荊州へ向かう途中で賊に遭…4キロバイト (642 語) - 2024年1月4日 (木) 19:23
- 遠い部分の信憑性には疑問が残るが、父の司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいる。司馬…44キロバイト (7,352 語) - 2024年10月19日 (土) 15:07
- 世子 司馬邕 義陽成王 司馬望(兄の司馬朗の養子) 太原成王 司馬輔 司馬翼(早世) 下邳献王 司馬晃 太原烈王 司馬瓌(中国語版)(司馬顒の父) 高陽元王 司馬珪 常山孝王 司馬衡 沛順王 司馬景 [脚注の使い方] ^ 『晋書』司馬孚伝 『晋書』巻37 列伝第7 安平献王伝 司馬順 - 司馬炎の禅譲を、表だって批判した皇族…6キロバイト (981 語) - 2024年3月16日 (土) 15:29
- 司馬 昭(しば しょう)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は子上。司隸河内郡温県孝敬里の人。司馬懿の次男。母は張春華。息子は西晋の武帝司馬炎など9人。蜀を滅ぼした功績で晋王・相国に封ぜられ、晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。 景初2年(238年)、魏の新城郷侯に封じられる。正始年間初め…13キロバイト (2,492 語) - 2024年6月4日 (火) 14:57
- 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年〈1747年〉- 文政元年10月21日〈1818年11月19日〉)は、江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木 春重(すずき はるしげ)を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画…21キロバイト (2,365 語) - 2023年11月5日 (日) 02:28
- 司馬 遹(しば いつ)は、西晋の皇太子。字は熙祖。諡は愍懐太子(びんかいたいし)。第2代皇帝恵帝司馬衷の長男。生母は淑妃(側室)の謝玖。 幼い頃から聡明であり、祖父の武帝司馬炎に溺愛され、いつも傍らにいた。 諸皇子と共に殿上で戯れていた時、父の司馬衷がやって来ると諸皇子の手を取った。次に司馬…18キロバイト (3,675 語) - 2024年3月6日 (水) 02:17
- 司馬 越(しば えつ、? - 永嘉5年3月19日(311年4月23日))は、西晋の皇族で八王の乱の八王の一人。字は元超。司馬懿の四弟である司馬馗の孫で、高密文献王司馬泰の長男。母は楊俊の孫娘。妻は裴氏。子は司馬毗。八王の乱を終結させて朝政の第一人者となり、漢軍の侵攻を幾度も阻んだが、懐帝と対立する中で病死した。…34キロバイト (7,449 語) - 2024年6月4日 (火) 23:38
- 司馬 倫(しば りん)は、西晋の皇族であり八王の乱の八王の一人。一時的に皇帝に即位したが、正史の晋書では皇帝の伝記である本紀には伝が立てられていない。字は子彝。司馬懿の第9子(末子)。 母は柏夫人であり、司馬懿の晩年に寵愛を受けて司馬倫を生んだ。司馬氏が魏の実権を握ると爵位を与えられ、嘉平元年(2…25キロバイト (5,215 語) - 2024年7月30日 (火) 22:07
- 司馬 伷(しば ちゅう)は、中国三国時代の魏から西晋にかけての武将。字は子将。河内郡温県孝敬里の人。司馬懿の第4子。生母は伏貴妃。司馬亮の同母弟。司馬師・司馬昭の異母弟。司馬京・司馬駿の同母兄。司馬榦・司馬肜・司馬倫の異母兄。妻は諸葛誕の娘(諸葛太妃)。諡号は武王。…5キロバイト (888 語) - 2024年4月1日 (月) 13:13
- 司馬 肜(しば ゆう、? - 永寧2年5月7日(302年6月18日))は、西晋の皇族。字は子徽。司馬懿の第8子。母は張夫人。 清廉潔白であり、高貴な様で評判であった。謙虚で慎ましい人柄だったが、何の才能も持ち合わせていなかった。 嘉平2年(250年)、司馬懿が政変を起こして魏朝廷を掌握する(高平陵の…9キロバイト (1,826 語) - 2024年6月5日 (水) 12:45
- 司馬 師(しば し)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は子元。西晋が建つと世宗の廟号、景帝の諡号を贈られた。司馬懿の長男で、司馬昭・司馬榦の同母兄。生母は張春華(宣穆皇后)。 司馬師は上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。若いときから「雅にして風彩あり」、「沈毅にして大略多…14キロバイト (2,649 語) - 2024年8月14日 (水) 16:41
- 司馬法の底本一覧 作者:司馬穰苴 姉妹プロジェクト:Wikipediaの記事, Commonsギャラリ, データ項目 『司馬法』(しばほう)は、司馬穰苴によって書かれたとされる兵法書である。武経七書の一つ。斉の威王が家臣たちに古くから伝わる斉の兵法を研究させ、それに司馬
- 司馬 (しば) 古代中国における官名。 国司の三等官である掾(じょう)の唐名。 このページはスタブ(書きかけ)です。このページを加筆して下さる協力者を求めています。
- 司馬 遷(しば せん、BC145 - BC86?)。中国前漢の歴史家。 乃ち、天の我を亡ぼし、用兵の罪に非ざるなり、を引くは、あに謬りにあらざらんや。 乃引天亡我、非用兵之罪也、豈不謬哉。 -- 「項羽 本紀賛」 (項羽が)、「天が我を亡ぼしたのであり、用兵の罪ではないのだ」という言葉を引いたのは、