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  • 勘解由(かげゆ) 勘解由使の略。 百官名の一つ。勘解由使の官職に由来する。 「勘解由」で始まるページの一覧 タイトルに「勘解由」を含むページの一覧 このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一…
    250バイト (114 語) - 2020年12月1日 (火) 02:11
  • こうして勘解由使は、中央行政と地方行政を監査・監督する重要な職となった。職務には、不与解由状が発行されたときの紛争処理、官吏の交替に関する法規集である交替式(こうたいしき)の編纂などがあった。当時、勘解由使による監査を判と呼んでおり、政務の参考書籍として編まれた『政事要略』に判の記録(勘解由使判抄)が所載されている。…
    4キロバイト (728 語) - 2024年2月26日 (月) 17:20
  • 歴史的には、勘解由小路を号した家系には以下のものがある。 藤原北家: 世尊寺流 - 藤原伊尹の子孫経尹-行尹と続き、行尹が勘解由小路を号したとある。 勧修寺流 - 為房-為隆-光房(勘解由次官)と系図に記され、さらに子孫高清(勘解由小路)とある。 日野氏流 - 日野資長-兼光-頼資(勘解由
    3キロバイト (336 語) - 2023年11月14日 (火) 19:56
  • 岸信周 (勘解由からのリダイレクト)
    岸 信周(きし のぶちか)は、戦国時代の武将。斎藤氏の家臣。美濃国堂洞城主。通称は孫四郎、勘解由左衛門。 美濃国の武将・佐藤信連の子として誕生。岸氏は、はじめ佐藤姓で藤原秀郷から分かれた一族といわれる。 美濃斎藤氏に仕え、天文11年(1542年)に斎藤道三が主君・土岐頼芸を大桑城から追放した戦に従…
    8キロバイト (1,065 語) - 2024年1月11日 (木) 02:09
  • 松前勘解由のサムネイル
    松前 勘解由/崇效(まつまえ かげゆ/たかのり)は、江戸時代後期の松前藩家老。蠣崎波響の孫。 マシュー・ペリーの箱館来航時に松前藩の代表として応接、名を高める。その後、筆頭家老として、外様大名ながら寺社奉行および老中を勤めた主君・松前崇広を支えるが、大政奉還後、勘解由の藩運営に不満を抱く尊王派の正義隊によるクーデターで失脚し自刃した。…
    13キロバイト (1,827 語) - 2023年11月24日 (金) 23:06
  • 長倉祐政 (伊東勘解由からのリダイレクト)
    庶流。伊東氏祐が日向国に下向する際、付き従い被官化した家系。 永禄10年(1567年)、敵方である島津軍の青陰勘解由という武将を討ち取った時に伊東義祐から褒賞として伊東姓を賜り、伊東勘解由と称する。その後、長倉に復姓し、嫡子の長倉近江守に伊東を名乗らせた。元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東…
    3キロバイト (321 語) - 2022年9月12日 (月) 03:23
  • 馬込勘解由のサムネイル
    出自や名など不詳。後妻を三河大給藩松平家より迎えている。 馬込勘解由喜与(? - 正徳5年(1715年)4月4日) 大給松平家の末子。二代目の娘香へ婿入りするが、慶安4年(1651年)には死去し、大伝馬町一丁目名主佐久間善八より嫁を迎える。 馬込勘解由影盛(? - 正徳2年(1712年)6月19日)…
    7キロバイト (1,092 語) - 2024年3月4日 (月) 11:49
  • 土御門久脩 (勘解由小路在綱からのリダイレクト)
    に元服し、天正元年(1573年)12月28日・14歳の時に、朝廷陰陽寮の長官・陰陽頭となる。 当時、土御門家と並んで陰陽道宗家の双璧であった賀茂氏勘解由小路家の当主・在富の唯一の息子である賀茂在昌は、永禄7年(1564年)に妻子を連れて京を出奔して、キリシタンとなって豊後府内に留学していた。在富は…
    18キロバイト (2,127 語) - 2023年11月17日 (金) 07:47
  • 吉田経房のサムネイル
    吉田経房 (勘解由小路経房からのリダイレクト)
    ※日付=旧暦 久安6年(1150年) 6月9日:蔵人 7月8日:従五位下 仁平元年(1151年)7月24日:伊豆守 保元2年(1157年) 8月21日:勘解由次官を兼任 10月21日:従五位上(大内裏・左衛門陣後庁の造営) 保元3年(1158年) 2月3日:皇后宮権大進を兼任(統子内親王立后日) 11月26日:安房守…
    12キロバイト (1,871 語) - 2023年12月14日 (木) 14:34
  • 勘解由小路(かでのこうじ、かげゆこうじ)は、京都(平安京)にあった道の名前である。 現在の下立売通。名前は、朝廷の機関(令外官)である勘解由使に由来する。 勘解由小路家 勘解由使 - 日本の律令制下の令外官の一つ。 表示 編集…
    664バイト (61 語) - 2023年11月14日 (火) 10:48
  • 勘解由小路資生のサムネイル
    勘解由小路 資生(かでのこうじ すけより/すけなり)は、江戸時代後期の公家・歌人。官位は正三位。明治期の官僚・政治家。貴族院子爵議員。 山城国京都で、裏松恭光の四男として生まれ、勘解由小路光宙の養子となる。天保15年1月(1844年)中務権少輔に任じられ、以後、中務少輔、弁官を歴任。文久2年12月(…
    5キロバイト (528 語) - 2023年11月2日 (木) 05:33
  • 大鳥逸平 (大鳥勘解由からのリダイレクト)
    1612年)は、江戸時代前期(17世紀)の日本のかぶき者の頭領。姓は大鳥居あるいは大鳥井(おおとりい)とも表記される。別名大鳥 勘解由(おおとり かげゆ)、大鳥 逸平次 勘解由(おおとり いっぺいじ かげゆ)とも。 1588年(天正16年)に生まれる。出生地は不明である。武蔵国大鳥の生まれ、とされることもあるが定かではない。…
    9キロバイト (1,317 語) - 2023年3月5日 (日) 12:48
  • 刀〈銘備前国長船住左衛門尉藤原朝臣則光/於作州鷹取庄黒坂造/鷹取勘解由左衛門藤原朝臣泰佐打ス/長禄三年己卯十二月十三日〉(かたな めいびぜんのくにおさふねのじゅうさえもんのじょうふじわらのあそんのりみつ さくしゅうたかとりのしょうくろさかにおいてつくる たかとりかげゆさえもんふじわらのあそんたいさうたス…
    11キロバイト (1,524 語) - 2022年10月28日 (金) 13:56
  • 広橋経光 (勘解由小路経光からのリダイレクト)
    月27日には正四位下に昇叙。11月6日に蔵人頭に補される。 仁治2年(1241年)2月1日、参議に任ぜられ、同日中に左大弁に転任。また同月8日には勘解由長官を兼ねる。10月13日に従三位に叙される。仁治4年(1243年)2月2日、讃岐権守を兼ねる。寛仁2年(1244年)1月5日、正三位に昇叙。宝治…
    7キロバイト (1,085 語) - 2022年12月19日 (月) 10:08
  • 吉高 勘解由(よしたか かげゆ)は、江戸時代後期の武士。出羽国新庄藩家老。実名は不明。 吉高氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の傍流・甲斐源氏の流れで、信濃国守護・小笠原氏の一門小笠原光冬が出羽楢岡城主となって以降、楢岡氏を名乗るようになり、さらに楢岡光信の四男が義高勘解由
    4キロバイト (644 語) - 2020年3月15日 (日) 08:12
  • 勘解由小路 在富(かでのこうじ/かげゆのこうじ あきとみ/ありとみ)は、戦国時代の公卿・陰陽師。従三位非参議・勘解由小路在重の子。官位は正二位・非参議。賀茂朝臣氏嫡流勘解由小路家の事実上の最後の当主。 勘解由小路在重の子として誕生。母は町顕郷の娘。初名は在秀。…
    8キロバイト (936 語) - 2024年4月23日 (火) 16:51
  • 賀茂在昌 (勘解由小路在昌からのリダイレクト)
    ・陰陽師。洗礼名はマノエル(Manoel)。正二位・勘解由小路在富の子。官位は従四位下・陰陽頭。 賀茂在昌については史料が少なく、未だ実態が定かになっていない。 在昌は賀茂朝臣姓勘解由小路家の子息であるが、当主を嗣いだかどうかは定かでない。「勘解由小路 在昌(かでのこうじ…
    26キロバイト (3,107 語) - 2024年5月9日 (木) 01:26
  • 勘解由小路 光宙(かでのこうじ みつおき)は、江戸時代末期の公卿。広橋胤定の末子で母は藤波寛忠の娘。勘解由小路資善と日野資矩の娘の養子。室は中山忠頼の娘。 文政元年(1818年)6月に資善夫妻の養子となり、翌月叙爵を受ける。翌文政2年(1819年)に元服して昇殿を許されて遠江権介に任ぜられる。中務…
    3キロバイト (316 語) - 2023年6月23日 (金) 01:30
  • 広橋兼仲 (勘解由小路兼仲からのリダイレクト)
    広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は、鎌倉時代後期の公卿。勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。民部卿・広橋経光の次男。官位は従二位・権中納言。日記『仲記』の著者。 建長4年(1252年)に元服、正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。…
    4キロバイト (531 語) - 2022年12月19日 (月) 10:04
  • 民部卿三位のサムネイル
    民部卿三位 (勘解由小路経子からのリダイレクト)
    ったが、20世紀後半に否定された。21世紀初頭時点では、正体として、師親の娘の北畠資子(きたばたけ しし/すけこ)とする説と、公卿勘解由小路経光(広橋経光)の娘の勘解由小路経子(かでのこうじ けいし/つねこ)とする説がある。 民部卿三位が師親の娘であった場合、後醍醐第三皇子にして将軍である護良親王…
    29キロバイト (4,653 語) - 2023年4月3日 (月) 11:18
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