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  • 守に叙任する。後に甲斐守に改める。寛政年間に藩校・直方堂を創設している。文政4年(1821年)7月21日、隠居して長男の重龍に家督を譲った。以後、不老斎と号した。 天保2年(1831年)、死去。享年56。 父:青木一貫(1734年 - 1786年) 母:お薗 - 青木一新の娘 正室:春 - 佐竹義忠の娘…
    3キロバイト (304 語) - 2022年3月8日 (火) 13:02
  • 蜷川親世のサムネイル
    親世(にながわ ちかよ)は、戦国時代の武将。 蜷川氏は代々足利将軍家に仕え、室町幕府政所代を務めた。父は蜷川親順。姉妹は斎藤利賢の妻で明智光秀の家老斎藤利三の母。 蜷川親順の長男として誕生。はじめ室町幕府12代将軍足利義晴に仕え 、13代将軍足利義輝の下では政所代を務める。丹波国船井郡桐野河内を領…
    5キロバイト (480 語) - 2024年3月15日 (金) 10:35
  • 林述斎のサムネイル
    林 述(はやし じゅっさい、明和5年6月23日(1768年8月5日) - 天保12年7月14日(1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者。林家8代で林家中興の祖。父は美濃国岩村藩主・松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した中・松平乗邑。諱は初め(松平)乗衡(のりひら)、後に(林)衡(たいら)…
    7キロバイト (1,155 語) - 2024年3月22日 (金) 19:08
  • 老荘思想のサムネイル
    荘思想(ろうそうしそう)は、中国で生まれた思想。諸子百家の道家(どうか)の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。 荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もあ…
    8キロバイト (1,165 語) - 2024年6月29日 (土) 00:36
  • 『聊齋志異』(りょうさいしい、聊志異)は、中国の清代前期の短編小説集。作者は蒲松齢(1640年(崇禎13年) - 1715年(康熙54年))。 藤田(1954)によれば「中國古来の筆記小説の系統を引く數多い文語體の小説の中に在って、短編小説として最も傑出しているということは、既に定評となって」お…
    38キロバイト (6,318 語) - 2023年10月18日 (水) 17:26
  • 斎藤五百枝のサムネイル
    長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。白馬会洋画研究所で洋画を学ぶ。1904…
    11キロバイト (1,271 語) - 2023年7月10日 (月) 12:42
  • は家督を継いで間もない慌ただしい時期であったが、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行井戸覚弘とともに応接掛として中阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。復
    8キロバイト (1,059 語) - 2024年3月18日 (月) 19:07
  • 島津忠良のサムネイル
    島津忠良 (島津日新からのリダイレクト)
    島津 忠良(しまづ ただよし)は、薩摩の戦国武将。島津氏の中興の祖として著名。号は日新(じっしんさい)。日新公(じっしんこう)としても知られる。 島津氏の分家・伊作氏の出身(このため、「伊作忠良」と呼ばれる事もある)。父・伊作善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・伊作久逸も明応9年…
    16キロバイト (2,571 語) - 2024年3月12日 (火) 11:40
  • 太田資始 (カテゴリ 江戸幕府中)
    大塩は乱の直前に中など幕閣の要人たちの賄賂や不正無尽などの悪行を糾弾する建議書を、旧知の林述宛て飛脚便で江戸に送付した。中および西の丸中6人の中で、大塩から糾弾されなかった者は資始と脇坂安董の2人だけである。安董は寺社奉行から西の丸
    9キロバイト (1,109 語) - 2024年1月27日 (土) 10:00
  • 信濃国川中島において甲斐国の武田晴信(信玄)と越後国の長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が衝突(第三次川中島の戦い) 元年 11月27日(1556年1月8日)- 上杉景勝。豊臣政権の五大で江戸時代の出羽国米沢藩初代藩主(+1623年) 2年 1月6日(1556年2月16日)- 藤堂高虎。武将・大名。江戸時代の伊勢国津藩初代藩主(+1630年)…
    4キロバイト (420 語) - 2023年10月27日 (金) 07:45
  • 鎮元 プロフィール 初出作品:ザ・キング・オブ・ファイターズ'94 格闘スタイル:中国拳法全般(主に酔拳を使用) 誕生日:4月27日 出身地: 中国 身長:164cm 体重:53kg 血液型:A型 嫌いなもの:パンダ 大切なもの:酒  好きな食べ物:('94 - 2000)酒 ('99 -…
    19キロバイト (2,683 語) - 2024年7月23日 (火) 16:55
  • 知念侑李(Hey! Say! JUMP) 願道寺の僧侶見習い。赤ん坊の時に寺の前に捨て置かれていたところを隆に拾われ育てられたため、隆を実の父親のように慕っている。 井戸の所有権についての話し合いの場で隆を殺した源兵衛を追って、おつうと共に江戸に出る。おつうと別れてからは源兵衛を自身の手でとの復讐の一…
    20キロバイト (3,365 語) - 2024年6月13日 (木) 11:36
  • 土井利勝のサムネイル
    土井利勝 (カテゴリ 江戸幕府中)
    としかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、譜代大名。江戸幕府の中・大老。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における中として、絶大な権勢を誇った。その事績や資料については原念が編纂した『賢相野史』に詳しい。…
    18キロバイト (2,739 語) - 2024年5月3日 (金) 19:49
  • 16歳で茶坊主として藩主邸の花畑屋敷で召し抱えられ、藩主に近習。掃除坊主から国附坊主に出世した。儒学者轟武兵衛や国学者林桜園に師事し、神風連の太田黒伴雄や加屋霽堅とともに、兵法を宮部鼎蔵に学んで、尊皇攘夷の思想を固めたのもこの頃で、彦は特に排外主義的な攘夷論者であった。…
    21キロバイト (3,311 語) - 2024年7月16日 (火) 18:47
  • 安藤信友のサムネイル
    安藤信友 (カテゴリ 江戸幕府中)
    信友は始め織部流だったが、後に米津田盛の次男田賢の門人となり、千利休からそのままの形で細川三 → 一尾伊織 → 田賢へと伝授されたといわれる三流(一尾流)を学んだ。その後、三流を基本として織部流を組み合わせることで独自の流儀を確立させた。これが安藤家で、「御家流」として代々伝えられて今日に至る。…
    8キロバイト (992 語) - 2023年3月19日 (日) 10:32
  • (久助)、谷川士清、荷田在満(東之助)、伴蒿蹊(庄右衛門)、谷時中(三郎右衛門)、伊藤東涯(源蔵)、中村惕(仲次郎)、人見懋(又左衛門)、山県周南(少介)、安藤抱琴(内匠)、皆川淇園、林述(衡)、古賀精里(弥助)、尾藤二洲(孝肇)、菅茶山(太中)、佐藤一斎(捨蔵)、安積艮斎(祐助)、藤沢東畡(…
    53キロバイト (4,076 語) - 2024年4月21日 (日) 23:00
  • 斎藤弥九郎のサムネイル
    斎藤弥九郎 (斎藤篤信からのリダイレクト)
    の名を長男の新太郎に継承させ、自身は斎藤篤信と名乗った。 安政4年(1857年)、将軍継嗣問題に際し、福井藩主松平慶永は、家臣の中根雪江を通じて、篤信に一橋慶喜擁立のために必要な工作を依頼した。篤信は二代弥九郎(新太郎)とともに、門下生等を通じて、中・松平忠固の周辺への工作に尽力した。 安政5年(1858年)、代々木に3…
    11キロバイト (1,643 語) - 2024年5月22日 (水) 16:23
  • 12月6日(文政12年11月11日) - 由利公正、福井藩士・政治家・実業家(+ 1909年) 12月10日(文政12年11月15日) - 松前崇広、中、蝦夷地松前藩第12代藩主(+ 1866年) 1月4日(文政11年11月29日)- 酒井抱一、絵師(* 1761年) 1月11日 - フリードリヒ・シュレーゲル、思想家(*…
    8キロバイト (1,261 語) - 2022年8月3日 (水) 05:22
  • 松平康英のサムネイル
    松平康英 (カテゴリ 江戸幕府中)
    蔵で、康功の兄には陸奥白河藩主阿部正定や後に中となった阿部正外などがいる。 参考までに原文の解釈を掲載しておく。 原文「分知松井信濃守康功亡養父松井軍次郎康済嫡子」 訳 「分家松井康功の養子先の養父である松井康済の長男」 原文「戸田丹波守光則隠居尤香光庸六男」 訳 「戸田光則の先代当主である光庸の六男」…
    12キロバイト (1,763 語) - 2024年3月9日 (土) 01:27
  • 松平信明 (三河吉田藩主) (カテゴリ 江戸幕府中)
    問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され、文化3年(1806年)5月25日に信明は家斉から中首座として復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている。ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている。…
    13キロバイト (2,018 語) - 2023年9月22日 (金) 04:07
  • 、越後勢追懸け候所を、越後勢の跡より、武田太郎義信二千計りにて、謙信の跡を慕ひ、懸り申され候。是により越後方後備の中条梅坡備にて、取つて返し、義信へ懸り、防戦ひ候へども梅坡が備、相色悪しく見え候所を、遊兵の宇佐美駿河守備助け来り、中条と一手になりて、武田義信備を追【
  • ウィキソースにおくのほそ道に関する記事群があります。 月日は百代の過客にして行きかふひともまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえてをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年
  • (土地、領域)」+「卩 (跪いた人)」、人が安住する土地を象る。「都市」「むら」を意味する漢語{邑 /*ʔ(r)əp/}を表す字。 羅振玉 『殷商貞卜文字考』 玉簡、1910年、17頁。 季旭昇撰 『説文新証』 芸文印書館、2014年、526-527頁。 殷代 くに。 古い都、旧都。 宗廟の無い都。 周代以降 (「都」に対する)さと、むら。
  • 将軍━╋━中━━━━┳━大目付    ┃       ┃    ┃       ┣━町奉行    ┃       ┃    ┃       ┗━勘定奉行    ┃    ┣━若年寄    ┃    ┗━寺社奉行 将軍の補佐をする中が置かれました。ほかに中の補佐をする若年寄がいます。
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