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  • 名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の分流。鎌倉幕府2代執権・北条の次男・北条朝時を祖とする。名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承したことにより名越を称し、母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。 創設当初の名越流
    9キロバイト (1,258 語) - 2023年9月19日 (火) 23:07
  • 北条朝時のサムネイル
    北条 朝時(ほうじょう ともとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条の次男。名越流北条氏の祖。母は正室の姫の前。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承したことにより、名越 朝時(なごえ ともとき)とも呼ばれる。 建久4年(1193年)、北条
    14キロバイト (2,174 語) - 2024年5月25日 (土) 05:40
  • 北条氏のサムネイル
    北条の名字で呼称されたことが確認できる者は時政、頼などごく少数派である。 鎌倉幕府の最高政務機関である評定衆の席次上位を独占した北条氏系十二家は以下の家が挙げられる。名越家、常盤家、塩田家、政村北条氏、伊具家、甘縄家、佐介家(2家)、北条氏、大仏家(3家) 伊豆国田方郡北条
    39キロバイト (5,383 語) - 2024年5月8日 (水) 14:15
  • 北条 章(ほうじょう ときあき、ときあきら)は鎌倉時代前期の北条氏一門。鎌倉幕府の評定衆。名越 章(なごえ ときあき、ときあきら)とも。名越流北条氏の初代北条朝時の子で、第2代当主。 寛元3年(1245年)には兄の北条が5代執権北条頼の廃立を企てて失敗した宮騒動により失脚しており、事前に…
    4キロバイト (473 語) - 2024年6月22日 (土) 09:57
  • 北条義時のサムネイル
    父:北条時政 母:伊東入道の娘 妻:阿波局 男子:北条…得宗家 妻:姫の前…比企朝宗の娘 男子:北条朝時名越流祖 男子:北条…極楽寺祖 女子:竹殿…大江親広および土御門定通妻 妻:伊佐朝政の娘 男子:北条…伊具祖 妻:伊賀の方…伊賀朝光の娘 男子:北条政村…政村祖 男子:北条実泰…金沢流祖…
    67キロバイト (11,476 語) - 2024年6月27日 (木) 13:51
  • 北条(ほうじょう みつとき)は、鎌倉時代前期の武将。北条氏の一門。名越流北条氏の祖である北条朝時の嫡男。名越(なごえ みつとき)とも。 寛元4年(1246年)、第4代執権北条経時が早世すると、光が前将軍藤原頼経と共謀して新執権北条頼を廃しようとした謀反が発覚する(宮騒動)。『保暦間…
    3キロバイト (328 語) - 2023年3月19日 (日) 15:11
  • 北条(ほうじょう のりとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。名越流北条朝時の子。母は北条房の娘。名越(なごえ のりとき)とも。 康元元年(1256年)から文永2年(1265年)まで引付衆、文永2年(1265年)から文永9年(1272年)まで評定衆を務めた。 北条
    3キロバイト (347 語) - 2024年6月22日 (土) 09:53
  • 北条 基(ほうじょう ときもと)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、北条氏の一門。名越流の祖・北条朝時の子。 基の史料上の初見は建長5年(1253年)で、康元2年(1257年)2月2日以前に六位の地位にあった。 名越流と得宗家との対立により、兄たちが宮騒動、二月騒動で度々討伐を受けるが、兄…
    3キロバイト (256 語) - 2023年2月23日 (木) 14:45
  • 北条泰時のサムネイル
    朝時を後継者とした理由の1つとして朝時が時政の名越邸を継承している点を挙げているが、朝時名越邸継承は時政の失脚後に義・政子の差配によってである可能性が高く、また朝時が義・泰と不仲になったのも義朝時の母方の一族比企氏を比企能員の変で滅ぼしたことによって、朝時が義の後継者となる可能性が低くなったからだとしている。…
    56キロバイト (9,757 語) - 2024年6月7日 (金) 14:25
  • 北条 幸(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。名越流北条氏の祖である北条朝時の四男。名越 幸(なごえ ときゆき)とも。 寛元4年(1246年)に4代執権北条経時が早世すると、兄弟と共に前将軍藤原頼経を擁して反得宗派を形成し、経時の弟で後を継いだ執権北条
    2キロバイト (171 語) - 2023年3月16日 (木) 15:00
  • 北条 長(ほうじょう ときなが)は、鎌倉時代中期の武将、北条氏の一門。名越流北条朝時の三男。母は大友能直の娘。 通称は遠江三郎といい、父朝時が遠江守であったことに由来する通称であった。仁治、寛元年間(1240年 - 1246年)備前守の任にあり、この期間、史料では備前守、備前前司と呼ばれていた。…
    3キロバイト (350 語) - 2023年2月22日 (水) 15:53
  • 演:増田恵子 実の前妻。顕の母。 享子(たかこ) 演:木村多江 実の後妻。政村の娘。 滝子(たきこ) 演:浜名彩香 → 乙宮ゆめ 顕の妻。 北条章(ほうじょう ときあきら) 演:白竜 名越流北条氏当主。北条朝時の次男。北条の孫。重・政村の甥。 自分たちこそが北条
    59キロバイト (9,155 語) - 2024年5月6日 (月) 09:12
  • 姫の前 (カテゴリ 北条)
    承元元年3月29日(1207年4月27日))は、鎌倉時代初期の比企一族の女性。鎌倉幕府の御家人・比企朝宗の娘。鎌倉幕府第2代執権・北条および公家源具親の正室。子に北条朝時名越流祖)、重(極楽寺祖)、竹殿、源輔通他。 源頼朝の大倉御所に勤める女官であった姫の前は、『吾妻鏡』に「比企の籐内朝宗が息女、当時権威…
    4キロバイト (640 語) - 2024年1月8日 (月) 16:41
  • 名越 (鎌倉市)のサムネイル
    鎌倉時代は初代執権北条時政がこの地に館を構えたことから、「名越殿」と呼ばれた。『吾妻鏡』には、建久3年(1192年)7月、源頼朝が「名越殿」を訪ねたとの記述がある。 時政以来、この地には北条氏の邸宅があった。父北条の勘気を被って廃嫡となった北条朝時が、祖父時政の屋敷を継承した事により名越次郎を名乗り、名越流北条氏の祖となる。…
    7キロバイト (1,184 語) - 2024年5月12日 (日) 11:39
  • 北条時宗のサムネイル
    北条宗宣(大仏流当主、のち第11代執権) 北条宗泰(宗宣の弟) 北条宗長(名越流) 足利家 足利宗家(斯波宗家、家の従兄弟) 安達宗景(泰盛の子) 安達盛宗(宗景の弟) 安達宗顕(安達顕盛の子で顕の父。宗景の従兄弟にあたる) 小田宗知 小山宗 小山宗長(貞の父) 葛西宗清(清宗) 河越宗重 佐々木宗信(六角宗信、頼綱の子)…
    35キロバイト (5,132 語) - 2024年6月21日 (金) 01:52
  • 鎌倉幕府の有力御家人足利泰氏と北条名越朝時の娘の間に長男として生まれる。寛元3年(1245年)の鶴岡八幡宮放生会における将軍近侍(供奉人中後陣随兵の筆頭)に任じられた足利三郎家氏の記載を初見として以降『吾妻鏡』にその活動を見せ始める。 母は名越流北条
    10キロバイト (1,311 語) - 2024年5月17日 (金) 09:02
  • 北条政村のサムネイル
    北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条は異母兄にあたる。政村北条氏の祖であり、12代執権北条は曾孫にあたる。13代執権北条も血縁的には曾孫である。…
    15キロバイト (2,334 語) - 2024年6月21日 (金) 02:03
  • 宮騒動 (名越の乱からのリダイレクト)
    仁治3年(1242年)、第3代執権・北条が死去する。嫡子氏、次子実はすでに死去していたため、氏の子・経時が執権職を嗣ぐこととなったが、すでにこの頃、北条家は庶が多く分立しており、経時の継承に対して不満を持つ者も少なくなかった。特に庶長子であった泰に対し正室腹の次弟・北条朝時を祖とする名越家は北条
    16キロバイト (3,100 語) - 2024年5月18日 (土) 10:35
  • 北条時政のサムネイル
    北条 時政(ほうじょう ときまさ、平時政(たいらの ときまさ))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将。鎌倉幕府初代執権。北条氏の一門。伊豆国の在地豪族の北条方もしくは北条兼の子。北条政子、北条の父。得宗家初代当主。 家系は桓武平氏平直方を自称する北条氏であるが、直方は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある。…
    43キロバイト (7,257 語) - 2024年6月11日 (火) 10:02
  • 家内にあっては、はじめ名越流北条氏の北条朝時の娘を正室に迎え、斯波家氏、渋川義顕を儲けるが、後に得宗家の北条氏の娘と婚姻することになり、これを正室として足利頼氏を儲けた。得宗家との婚姻により、朝時の娘は側室に移され、後継者と目されていた家氏は廃嫡、尾張足利家…
    11キロバイト (1,556 語) - 2024年5月3日 (金) 09:33
  • → 太平記 巻第九 巻第九 58 足利殿御上洛事 先船上に御坐有て、討手を被差上、京都を被責由、六波羅の早馬頻に打て、事既に難儀に及由、関東に聞へければ、相摸入道大に驚て、さらば重て大勢を指上せて半は京都を警固し、宗徒は舟上を可責と評定有て、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人を被催。其中に足
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