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== 人物 ==
== 人物 ==
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[[蘇州 (古代)|蘇州]][[相城区|長洲県]]の出身。[[医者]]の家柄であったが、14歳出家して[[密教]]を伝授された後、[[臨済宗]]に帰依し法名を道衍、号を独庵とし「独庵道衍禅師」と呼ばれた。また[[道士]]の[[石応真]]から[[陰陽術]]と[[占術]]を学んだ。[[洪武]]中期朝廷では[[儒教]]の[[経典]]に精通た僧侶を呼んで[[礼部]]で試験を行わせた。このとき陶淵官職を受け[[朱元璋|洪武帝]]は僧侶[[袈裟]]下賜し、帰した。洪武18年([[1385年]])、[[馬皇后 (洪武)|馬皇后]]の冥福祈る高僧を招いて諸王を侍奉したのを機道衍洪武帝の四男・燕王朱棣(後の[[永楽帝]])会い、彼の軍師とた。以後、燕王の封地である[[北京市|北平]]に移住してり、[[慶寿寺]]の住持でありながら燕王と頻繁に隠密な謀議を交わした

燕王からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、[[建文帝]]が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また燕王自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、燕王を永楽帝として即位させた([[靖難の変]])。


即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時期には「太祖実録」・「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時期には「太祖実録」・「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。

2021年9月10日 (金) 02:06時点における版

姚広孝

姚 広孝(よう こうこう、元統3年(1335年) - 永楽16年3月18日1418年4月23日))は、初の政治家軍師僧侶道衍(どうえん)の名でも知られる。

人物

蘇州長洲県の出身。医者の家柄であったが、14歳に出家して密教を伝授された後、臨済宗に帰依し法名を道衍、号を独庵とし「独庵道衍禅師」と呼ばれた。また道士石応真から陰陽術占術を学んだ。洪武中期、朝廷では儒教経典に精通した僧侶を呼んで礼部で試験を行わせた。このとき陶淵は官職を受けず、洪武帝は僧侶の袈裟を下賜し、帰した。洪武18年(1385年)、馬皇后の冥福を祈るため、高僧を招いて諸王を侍奉したのを機に道衍は洪武帝の四男・燕王朱棣(後の永楽帝)と会い、彼の軍師となった。以後、燕王の封地である北平に移住しており、慶寿寺の住持でありながら燕王と頻繁に隠密な謀議を交わした。

燕王からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、建文帝が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また燕王自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、燕王を永楽帝として即位させた(靖難の変)。

即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時期には「太祖実録」・「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。

永楽帝時期を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。

逸話

  • 劉秉忠の死後、およそ100年を経て永楽帝のブレーンとなった姚広孝は彼の生まれ変わりとまで称された[1]
  • 燕王朱棣に初めて会った際、「あなたに白い帽子をかぶせましょう」と言ったという。「王」の字に「白」の字を乗せることで「皇」という字になるから、「あなたを王から皇帝にしてさし上げよう」という意味である。
  • 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。

脚注

  1. ^ ウィキソース出典 張廷玉 (中国語), 明史/卷145, ウィキソースより閲覧。 「姚廣孝,長洲人,本醫家子。年十四,度為僧,名道衍,字斯道。事道士席應真,得其陰陽術數之學。嘗遊嵩山寺,相者袁珙見之曰:「是何異僧!目三角,形如病虎,性必嗜殺,劉秉忠流也。」道衍大喜。」

参考文献