「セントルイス万国博覧会」の版間の差分

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アメリカ軍の捕囚の[[インディアン]]の族長[[ジェロニモ]]らが[[人間動物園]]として展示されるなどした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=282}}。また[[ドイツ]]からは[[マルガレーテ・シュタイフ]]の[[テディベア]]が出品され、グランプリを受賞した<ref>『マルガレーテ・シュタイフ物語』(磯みゆき著、[[ポプラ社]]、2011年6月)128頁。</ref>。
アメリカ軍の捕囚の[[インディアン]]の族長[[ジェロニモ]]らが[[人間動物園]]として展示されるなどした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=282}}。また[[ドイツ]]からは[[マルガレーテ・シュタイフ]]の[[テディベア]]が出品され、グランプリを受賞した<ref>『マルガレーテ・シュタイフ物語』(磯みゆき著、[[ポプラ社]]、2011年6月)128頁。</ref>。

== 概要 ==
それまでの博覧会史上最大の約1200エーカーの敷地に、教育,芸摘,科学といった「文明」の成果に関する16の展示をはじめ,農業,工業,漁業などの「自然」に関連する部門の展示が並べられ、展示館の最後には、人類学、社会経詩学、身体文化の展示が加えられた<ref name=miyatake>[https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34109/1/118_P45-93.pdf 簿覧会の記憶 : 1904年セントルイス博覧会とアイヌ]宮武公夫, 北大文学研究科紀要, 2006-02-28</ref>。文物の展示だけでなく、[[マックス・ウェーバー]]や[[アンリ・ポアンカレ]]といった国際的に著名な学者も参加する国際会議も開催された<ref name=miyatake/>。日本からは[[岡倉天心]]が講演した。人類学展示では、アフリカのピグミー,アルゼンチンのパタゴニア巨人、北米やフィリピン先住民に加えて、アイヌが参加し、実際の生活を行なってみせた<ref name=miyatake/>。

博覧会場の南側には、「パイク」と呼ばれる娯楽地区が設けられ、巨大な[[観覧車]]のほか、チロル・アルプスとドイツ風レストラン,[[ボーア戦争]]の戦関シーンの再現、動物ショーなどに混ざって、オリエント風の見世物や日本の[[歌舞伎]]などが行われた<ref name=miyatake/>。また、[[米西戦争]]の勝利で1888年に米国支配となったフィリピンの[[植民地]]展示が行なわれ、広大な敷地に40の部族からなる1200人のフィリピン先住民が集められた<ref name=miyatake/>。


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"The Japanese Representation." (Japanese Commissioners group) at the 1904 World's Fair.jpg|日本代表団
"The Japanese Representation." (Japanese Commissioners group) at the 1904 World's Fair.jpg|日本代表団
Mr. and Mrs. Goodman King at a 1904 World's Fair tea ceremony. Mr. King was Special Commissioner to Japan for the Louisiana Purchase Exposition.jpg|博物館特別委員を招いた宴会
Mr. and Mrs. Goodman King at a 1904 World's Fair tea ceremony. Mr. King was Special Commissioner to Japan for the Louisiana Purchase Exposition.jpg|博物館特別委員を招いた宴会
"Geisha Girls." (Taken during the 1904 World's Fair).jpg|芸者
"Geisha Girls." (Taken during the 1904 World's Fair).jpg|芸者。数多くの芸者が博覧会のために渡米したが、会期中に4名が死亡、1名が行方不明となった。
"Dainty Geisha Girls and Quaint Arched Bridges in Fair Japan, Louisiana Purchase Exposition, St. Louis, MO. U.S.A." (cropped).jpg|芸者
"Dainty Geisha Girls and Quaint Arched Bridges in Fair Japan, Louisiana Purchase Exposition, St. Louis, MO. U.S.A." (cropped).jpg|芸者。後ろは日本の物産販売所。賃金で揉めストライキを起こす芸者もあったが、帰国を拒否する者も多数いた。
Japanese Ensemble (Japanese Reservation) (1904 World's Fair).jpg|琴と三味線の演奏
Japanese Ensemble (Japanese Reservation) (1904 World's Fair).jpg|琴と三味線の演奏
Interior of Japanese Home (Japanese Reservation) (1904 World's Fair).jpg|茶のお点前
Interior of Japanese Home (Japanese Reservation) (1904 World's Fair).jpg|茶のお点前
Japanese lady and child walking over stones in Lake (Fair Japan) (1904 World's Fair).jpg|日本庭園を歩く女性と子供
Japanese lady and child walking over stones in Lake (Fair Japan) (1904 World's Fair).jpg|日本庭園を歩く女性と子供
"Ainu Group" (Aborigines of Japan from the Island of Hokkaido or Yezo, Department of Anthropology, 1904 World's Fair).jpg|博覧会側から人類学上の研究のためとしてアイヌの招聘を要請され、経費は博覧会持ちで3家族と単身男性から成る9人のアイヌを渡米させた。人選は[[フレデリック・スタール]]が行なった。
"Ainu Group" (Aborigines of Japan from the Island of Hokkaido or Yezo, Department of Anthropology, 1904 World's Fair).jpg|博覧会側から人類学上の研究のためとしてアイヌの招聘を要請され、経費は博覧会持ちで3家族と単身男性から成る9人のアイヌを渡米させた。人選は[[フレデリック・スタール]]と[[ジョン・バチェラー]]が行なった。
Ainu Group from Japan at their lodge in a Department of Anthropology exhibit at the 1904 World's Fair.jpg|スタールが北海道で買い求めたアイヌの家が2軒移築され、ここで8か月暮らした。他に米国やフィリピンなど各国の原住民同様に会場内に家造り生活した。
Ainu Group from Japan at their lodge in a Department of Anthropology exhibit at the 1904 World's Fair.jpg|スタールが北海道で買い求めたアイヌの家が2軒移築され、ここで8か月暮らした。工芸品人気を集め、多額の収入た。
"The Ainu Family." (Taken during the 1904 World's Fair) (cropped).jpg|[[平取村]]から来た平村一家。当時夫婦ともに35歳、娘4歳。
"The Ainu Family." (Taken during the 1904 World's Fair) (cropped).jpg|[[平取村]]から来た平村一家。当時夫婦ともに30代で4歳。
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2021年2月19日 (金) 11:06時点における版

ポスター

セントルイス万国博覧会(セントルイスばんこくはくらんかい, Louisiana Purchase Exposition, Expo 1904)は、ルイジアナ買収100周年を記念して、1904年4月30日から12月1日までアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスで開催された国際博覧会である。60ヶ国が参加し、会期中1969万人が来場した。この時、セントルイスオリンピックが同時開催された。

アメリカ軍の捕囚のインディアンの族長ジェロニモらが人間動物園として展示されるなどした[1]。またドイツからはマルガレーテ・シュタイフテディベアが出品され、グランプリを受賞した[2]

概要

それまでの博覧会史上最大の約1200エーカーの敷地に、教育,芸摘,科学といった「文明」の成果に関する16の展示をはじめ,農業,工業,漁業などの「自然」に関連する部門の展示が並べられ、展示館の最後には、人類学、社会経詩学、身体文化の展示が加えられた[3]。文物の展示だけでなく、マックス・ウェーバーアンリ・ポアンカレといった国際的に著名な学者も参加する国際会議も開催された[3]。日本からは岡倉天心が講演した。人類学展示では、アフリカのピグミー,アルゼンチンのパタゴニア巨人、北米やフィリピン先住民に加えて、アイヌが参加し、実際の生活を行なってみせた[3]

博覧会場の南側には、「パイク」と呼ばれる娯楽地区が設けられ、巨大な観覧車のほか、チロル・アルプスとドイツ風レストラン,ボーア戦争の戦関シーンの再現、動物ショーなどに混ざって、オリエント風の見世物や日本の歌舞伎などが行われた[3]。また、米西戦争の勝利で1888年に米国支配となったフィリピンの植民地展示が行なわれ、広大な敷地に40の部族からなる1200人のフィリピン先住民が集められた[3]

日本の参加

日本館は博覧会終了後、タカジアスターゼやアドレナリンの発明者でアメリカで成功していた高峰譲吉に譲渡され、サリバン郡 (ニューヨーク州)メリーウォルドにある高峰の所有地内に移築され、夏の別荘「松楓殿」として使用された[4]。高峰が没した翌年妻が売却し、以降売買が繰り返され、タキヒョーの所有となった[5]

参考文献

  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478 

脚注

  1. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 282.
  2. ^ 『マルガレーテ・シュタイフ物語』(磯みゆき著、ポプラ社、2011年6月)128頁。
  3. ^ a b c d e 簿覧会の記憶 : 1904年セントルイス博覧会とアイヌ宮武公夫, 北大文学研究科紀要, 2006-02-28
  4. ^ Jokichi Takamine (1854-1922) and Caroline Hitch Takamine (1866-1954) William Shurtleff, Akiko Aoyagi, Soyinfo Center, 2012, page:Jokichi Takamine10
  5. ^ 「松楓殿」今昔NPO法人高峰譲吉博士研究会、

関連項目

外部リンク