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'''創造社'''(そうぞうしゃ)は、[[1921年]]6月から7月の間に、[[日本]]で成立した[[中国]][[現代文学]]の社団である。日本に留学していた[[郭沫若]]、[[成仿吾]]、[[郁達夫]]、[[張資平]]、[[田漢]]、[[鄭伯奇]]などの中国人留学生らによって共同創建された。[[:zh:太陽社|太陽社]]とともに、当時、中国の二大革命文学団体の一つであった。
'''創造社'''(そうぞうしゃ)は、[[1921年]]6月から7月の間に、[[日本]]で成立した[[中国]][[現代文学]]の社団である。日本に留学していた[[郭沫若]]、[[成仿吾]]、[[郁達夫]]、[[張資平]]、[[田漢]]、[[鄭伯奇]]などの中国人留学生らによって共同創建された。[[:zh:太陽社|太陽社]]とともに、当時、中国の二大革命文学団体の一つであった。


第一期創造社の主力は詩の[[郭沫若]]、小説の[[郁達夫]]、[[張資平]]、演劇の[[田漢]]、評論の[[成仿吾]]である。彼らの共通点は日本留学時に西洋や日本の近代文学に触れ、「実学」から「文学」へと突き抜けたことである。彼らの日本留学の目的は「実学」を学ぶことであったが、「実学」を超える意味を「文学」の中に見出した。だからこそ創造社は急激な左翼化を遂げることになる。<ref>小谷一郎著『創造社研究――創造社と日本』(2013年 汲古書院</ref>
第一期創造社の主力は詩の[[郭沫若]]、小説の[[郁達夫]]、[[張資平]]、演劇の[[田漢]]、評論の[[成仿吾]]である。彼らの共通点は日本留学時に西洋や日本の近代文学に触れ、「実学」から「文学」へと突き抜けたことである。彼らの日本留学の目的は「実学」を学ぶことであったが、「実学」を超える意味を「文学」の中に見出した。だからこそ創造社は急激な左翼化を遂げることになる。<ref>{{Cite book |和書 |author=小谷一郎 |year=2013 |title= 創造社研究――創造社と日本 |publisher= 汲古書院 |isbn=9784762965135 }}</ref>


創造社は成立後、『創造社叢書』を編集出版し郭沫若の詩歌『女神』などを掲載した。翌年、『創造季刊』の発行を開始し、[[1923年]]には、『創造週報』、さらに、『中華新報』の文学副刊である『創造日』を編集出版している。
創造社は成立後、『創造社叢書』を編集出版し郭沫若の詩歌『女神』などを掲載した。翌年、『創造季刊』の発行を開始し、[[1923年]]には、『創造週報』、さらに、『中華新報』の文学副刊である『創造日』を編集出版している。

2019年12月16日 (月) 09:28時点における版

創造社(そうぞうしゃ)は、1921年6月から7月の間に、日本で成立した中国現代文学の社団である。日本に留学していた郭沫若成仿吾郁達夫張資平田漢鄭伯奇などの中国人留学生らによって共同創建された。太陽社とともに、当時、中国の二大革命文学団体の一つであった。

第一期創造社の主力は詩の郭沫若、小説の郁達夫張資平、演劇の田漢、評論の成仿吾である。彼らの共通点は日本留学時に西洋や日本の近代文学に触れ、「実学」から「文学」へと突き抜けたことである。彼らの日本留学の目的は「実学」を学ぶことであったが、「実学」を超える意味を「文学」の中に見出した。だからこそ創造社は急激な左翼化を遂げることになる。[1]

創造社は成立後、『創造社叢書』を編集出版し郭沫若の詩歌『女神』などを掲載した。翌年、『創造季刊』の発行を開始し、1923年には、『創造週報』、さらに、『中華新報』の文学副刊である『創造日』を編集出版している。

芸術派浪漫派とされる創造社は、当初から人生派写実派とされる文学研究会に対抗した。前期には、天才を尊重し、自我の表現を芸術の趣旨となし、作品は、早期ロマン主義耽美主義の特徴を有していた。中国の新文学活動に相当の促進作用をもたらした。創造社が核心となって形成した詩歌の流れは、早期ロマン主義と称された。

後期には、日本から帰国した馮乃超王独清穆木天彭康などの新会員が加入した。

1925年五・三〇事件ごろから革命文学を唱えだした。

1926年、創造社は出版部を上海市閘北宝山路三徳里A11号に設けた。編集部が出版した『A11』は、この住所によったものである。1928年には、老靶子路(現在の武進路)518号に移転した。創造社出版部は、『創造月刊』、『A11』週刊、『創造社叢書』など10余種の刊行物や叢書を出版した。

1929年2月、創造社と出版部は、国民政府当局によって閉鎖された。

参考文献

  • 蘇徳昌「中国人の日本観―郁達夫」『奈良大学紀要』第30巻、2002年、15-44頁。 
  • 中国文学研究会 編 編『中国新文学事典』河出文庫、1955年。 
  1. ^ 小谷一郎『創造社研究――創造社と日本』汲古書院、2013年。ISBN 9784762965135