「フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)」の版間の差分
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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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| 人名 = フリードリヒ2世 |
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| 各国語表記 = Friedrich II. |
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| 家名・爵位 = [[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]] |
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| 画像説明 = |
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| 在位 = [[1760年]] - [[1785年]] |
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| 続柄 = |
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| 全名 = |
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| 身位 = |
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| 敬称 = |
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1720|8|14|no}} |
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| 生地 = [[カッセル]] |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1720|8|14|1785|10|31}} |
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| 没地 = カッセル |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 配偶者1 = [[メアリー・オブ・グレート・ブリテン]] |
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| 配偶者2 = [[フィリッピーネ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート]] |
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| 子女 = ヴィルヘルム<br>[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム9世]]<br>[[カール・フォン・ヘッセン=カッセル|カール]]<br>[[フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム|フリードリヒ]] |
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| 家名 = [[ヘッセン家|ヘッセン=カッセル家]] |
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| 父親 = ヘッセン=カッセル方伯[[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム8世]] |
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| 母親 = ドロテア・ヴィルヘルミーナ・フォン・ザクセン=ツァイツ |
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| 役職 = |
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| 宗教 = [[キリスト教]][[プロテスタント]]→[[カトリック教会|カトリック]] |
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| サイン = |
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'''フリードリヒ2世'''('''<span lang="de" xml:lang="de">Friedrich II.</span>''', [[1720年]][[8月14日]] - [[1785年]][[10月31日]])は、[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]](在位:[[1760年]] - 1785年)。 |
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== 生涯 == |
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[[1740年]]に[[イギリス]]王兼[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の王女[[メアリー・オブ・グレート・ブリテン|メアリー]](1723年 - 1772年)と結婚した(式は[[5月8日]]に代理人を介して[[ロンドン]]で、[[6月28日]]に本人が出席して[[カッセル]]でそれぞれ行なわれた)。2人の間には、ヴィルヘルム(夭逝)、ヴィルヘルム(後のヘッセン選帝侯[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム1世]])、[[カール・フォン・ヘッセン=カッセル|カール]](1744年 - 1836年)、[[フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム|フリードリヒ]](1747年 - 1837年)の4子が生まれた。また、[[1772年]]にメアリーと死別すると[[1773年]][[1月10日]]に[[ベルリン]]にて[[ブランデンブルク=シュヴェート]]辺境伯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の娘[[フィリッピーネ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート|フィリッピーネ]]と再婚したが、彼女との間には子供は生まれなかった。 |
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[[1740年]]に[[イギリス]]王兼[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の王女[[メアリー・オブ・グレート・ブリテン|メアリー]](1723年 - 1772年)と結婚した(式は[[5月8日]]に代理人を介して[[ロンドン]]で、[[6月28日]]に本人が出席して[[カッセル]]でそれぞれ行なわれた)。 |
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2人の間には、以下の4子が生まれた。 |
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* ヴィルヘルム(1741年12月25日 - 1742年7月1日) - 夭逝 |
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* [[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム9世]](1743年 - 1821年) - ヘッセン=カッセル方伯、後にヘッセン選帝侯(ヴィルヘルム1世)となる |
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* [[カール・フォン・ヘッセン=カッセル|カール]](1744年 - 1836年) |
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* [[フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム|フリードリヒ]](1747年 - 1837年) |
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また、[[1772年]]にメアリーと死別すると[[1773年]][[1月10日]]に[[ベルリン]]にて[[ブランデンブルク=シュヴェート]]辺境伯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の娘[[フィリッピーネ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート|フィリッピーネ]]と再婚したが、彼女との間には子供は生まれなかった。 |
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[[1749年]]に父と共に[[ケルン大司教]][[クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン]]を訪ねた際、[[カトリック教会|カトリック]]に改宗したが、ヘッセン=カッセルの宗教は[[改革派教会|カルヴァン派]]にとどめ、自身の子供も[[プロテスタント]]として育てた。 |
[[1749年]]に父と共に[[ケルン大司教]][[クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン]]を訪ねた際、[[カトリック教会|カトリック]]に改宗したが、ヘッセン=カッセルの宗教は[[改革派教会|カルヴァン派]]にとどめ、自身の子供も[[プロテスタント]]として育てた。 |
2019年12月9日 (月) 12:11時点における版
フリードリヒ2世 Friedrich II. | |
---|---|
ヘッセン=カッセル方伯 | |
在位 | 1760年 - 1785年 |
出生 |
1720年8月14日 カッセル |
死去 |
1785年10月31日(65歳没) カッセル |
配偶者 | メアリー・オブ・グレート・ブリテン |
フィリッピーネ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート | |
子女 |
ヴィルヘルム ヴィルヘルム9世 カール フリードリヒ |
家名 | ヘッセン=カッセル家 |
父親 | ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム8世 |
母親 | ドロテア・ヴィルヘルミーナ・フォン・ザクセン=ツァイツ |
宗教 | キリスト教プロテスタント→カトリック |
フリードリヒ2世(Friedrich II., 1720年8月14日 - 1785年10月31日)は、ヘッセン=カッセル方伯(在位:1760年 - 1785年)。
生涯
ヴィルヘルム8世とその妻であったザクセン=ツァイツ公モーリッツ・ヴィルヘルムの公女ドロテア・ヴィルヘルミーナ(1691年 - 1743年)の息子。
1740年にイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリー(1723年 - 1772年)と結婚した(式は5月8日に代理人を介してロンドンで、6月28日に本人が出席してカッセルでそれぞれ行なわれた)。
2人の間には、以下の4子が生まれた。
- ヴィルヘルム(1741年12月25日 - 1742年7月1日) - 夭逝
- ヴィルヘルム9世(1743年 - 1821年) - ヘッセン=カッセル方伯、後にヘッセン選帝侯(ヴィルヘルム1世)となる
- カール(1744年 - 1836年)
- フリードリヒ(1747年 - 1837年)
また、1772年にメアリーと死別すると1773年1月10日にベルリンにてブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘フィリッピーネと再婚したが、彼女との間には子供は生まれなかった。
1749年に父と共にケルン大司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンを訪ねた際、カトリックに改宗したが、ヘッセン=カッセルの宗教はカルヴァン派にとどめ、自身の子供もプロテスタントとして育てた。
1760年、父の死によってヘッセン=カッセル方伯位を嗣いだ。1775年にアメリカ独立戦争が勃発するとフリードリヒ2世はイギリスとの間に傭兵提供条約を結び、これによって莫大な収益をあげた。
1785年にカッセルで死去し、次男ヴィルヘルムがヴィルヘルム9世として方伯位を嗣いだ。
関連項目
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