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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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| 人名 = エドワード・オブ・ミドルハム |
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| 各国語表記 = Edward of Middleham |
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| 家名・爵位 = [[プリンス・オブ・ウェールズ]] |
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| 画像 = Rous Roll - Edward, Prince of Wales.jpg |
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| 画像サイズ = 160px |
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| 画像説明 = |
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| 続柄 = |
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| 称号 = [[ソールズベリー伯]] |
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| 全名 = |
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| 身位 = |
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| 敬称 = |
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| 出生日 = [[1473年]]頃 |
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| 生地 = {{ENG927}}、[[ミドルハム城]] |
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| 死亡日 = [[1484年]][[4月9日]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = {{ENG927}}、シェリフ・ハットン、教区教会 |
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| 配偶者1 = |
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| 子女 = |
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| 父親 = [[イングランド王国|イングランド]]王[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]] |
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| 母親 = [[アン・ネヴィル]] |
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| 役職 = |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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'''エドワード・オブ・ミドルハム'''(Edward of Middleham, [[1473年]]頃 - [[1484年]][[4月9日]])または'''エドワード・プランタジネット'''(Edward Plantagenet)は、[[イングランド王国|イングランド]]の王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])であり、国王[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]と[[アン・ネヴィル]]の1人息子である。 |
'''エドワード・オブ・ミドルハム'''(Edward of Middleham, [[1473年]]頃 - [[1484年]][[4月9日]])または'''エドワード・プランタジネット'''(Edward Plantagenet)は、[[イングランド王国|イングランド]]の王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])であり、国王[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]と[[アン・ネヴィル]]の1人息子である。 |
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[[1483年]]、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまた[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)になった。叙任式典は[[ヨーク大聖堂]]で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配されたことが伺える。恐らくエドワード少年は健康問題により[[ロンドン]]での両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で式典を行ったのだろう。 |
[[1483年]]、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまた[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)になった。叙任式典は[[ヨーク大聖堂]]で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配されたことが伺える。恐らくエドワード少年は健康問題により[[ロンドン]]での両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で式典を行ったのだろう。 |
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翌[[1484年]]のエドワードの急死によって、父リチャードは後継者を失い(実子に代わって甥たち、クラレンス公の遺児[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]、次いで[[ジョン・ド・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール]]を王位継承者に指名した)、父のライバルであるリッチモンド伯[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]が王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区 |
翌[[1484年]]のエドワードの急死によって、父リチャードは後継者を失い(実子に代わって甥たち、クラレンス公の遺児[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]、次いで[[ジョン・ド・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール]]を王位継承者に指名した)、父のライバルであるリッチモンド伯[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]が王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区教会に埋葬された。 |
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2017年12月23日 (土) 13:40時点における版
エドワード・オブ・ミドルハム Edward of Middleham | |
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プリンス・オブ・ウェールズ | |
称号 | ソールズベリー伯 |
出生 |
1473年頃 イングランド王国、ミドルハム城 |
死去 |
1484年4月9日 |
埋葬 |
イングランド王国、シェリフ・ハットン、教区教会 |
父親 | イングランド王リチャード3世 |
母親 | アン・ネヴィル |
エドワード・オブ・ミドルハム(Edward of Middleham, 1473年頃 - 1484年4月9日)またはエドワード・プランタジネット(Edward Plantagenet)は、イングランドの王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)であり、国王リチャード3世とアン・ネヴィルの1人息子である。
生涯
エドワードの出生年は確かではないが、ミドルハム城(母方の祖父であるウォリック伯リチャード・ネヴィルの以前の所有物)で生まれたことは知られている。1478年、クラレンス公ジョージが反逆罪で処刑されると、そのソールズベリー伯の称号はエドワードに与えられた(エドワードの死後、クラレンス公の遺児エドワードに返還された)。
1483年、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまたプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)になった。叙任式典はヨーク大聖堂で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配されたことが伺える。恐らくエドワード少年は健康問題によりロンドンでの両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部のヨークで式典を行ったのだろう。
翌1484年のエドワードの急死によって、父リチャードは後継者を失い(実子に代わって甥たち、クラレンス公の遺児エドワード、次いでリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを王位継承者に指名した)、父のライバルであるリッチモンド伯ヘンリー・テューダーが王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区教会に埋葬された。
先代 エドワード5世 |
プリンス・オブ・ウェールズ 1483年 - 1484年 |
次代 アーサー・テューダー |
イングランドの爵位 | ||
---|---|---|
先代 新設 |
ソールズベリー伯 1478年 - 1484年 |
次代 消滅 |