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'''川村 禾門'''(かわむら かもん、[[1918年]][[1月25日]]<ref name="jinmei" /> - [[1999年]])は[[日本]]の[[俳優]]。別名義に'''川村 耽平'''がある<ref name="jinmei">『日本映画人名事典 男優篇上巻』キネマ旬報社、1996年、493頁。</ref>。
'''川村 禾門'''(かわむら かもん、[[1918年]][[1月25日]]<ref name="jinmei" /> - [[1999年]])は[[日本]]の[[俳優]]。別名義に'''川村 耽平'''がある<ref name="jinmei">『日本映画人名事典 男優篇上巻』キネマ旬報社、1996年、493頁。</ref>。


[[東京]]生まれ。[[旧制中学]]卒後、[[日活]]多摩川(後に[[大映]])入社。 1943年[[稲垣浩]]監督・[[阪東妻三郎]]主演『[[無法松の一生]]』で未亡人の息子(ぼんぼん)役で出演。同僚の女優・[[森下彰子]]と結婚、その直後の1994年7月[[朝鮮]]に出征。復員後、[[桜隊]]の一員として広島で被爆死した彰子の両親のもとを訪ね、遺骨と対面。遺族によれば一晩中遺骨の傍らで泣き明かしていたという。後に親戚の勧めで再婚し俳優生活も再開した。彰子については長年、極限られた俳優仲間以外には話さなかったが、1993年7月、当時[[白井佳夫]](映画評論家)が催していた『無法松の一生』の朗読再現パフォーマンスに出席した際、観客の前で積年の想いを語った。晩年も映画のオーディションを受けてまわり幾本かの映画に出演している。
[[東京]]生まれ。[[旧制中学]]卒後、[[日活]]多摩川(後に[[大映]])入社。 1943年[[稲垣浩]]監督・[[阪東妻三郎]]主演『[[無法松の一生]]』で未亡人の息子(ぼんぼん)役で出演。同僚の女優・[[森下彰子]]と結婚、その直後の1944年7月[[朝鮮]]に出征。復員後、[[桜隊]]の一員として広島で被爆死した彰子の両親のもとを訪ね、遺骨と対面。遺族によれば一晩中遺骨の傍らで泣き明かしていたという。後に親戚の勧めで再婚し俳優生活も再開した。彰子については長年、極限られた俳優仲間以外には話さなかったが、1993年7月、当時[[白井佳夫]](映画評論家)が催していた『無法松の一生』の朗読再現パフォーマンスに出席した際、観客の前で積年の想いを語った。晩年も映画のオーディションを受けてまわり幾本かの映画に出演している。
映画『[[無法松の一生]]』、『赤い鷹』など[[松竹]]を中心に多数の作品に出演した。
映画『[[無法松の一生]]』、『赤い鷹』など[[松竹]]を中心に多数の作品に出演した。



2017年7月26日 (水) 02:14時点における版

川村 禾門(かわむら かもん、1918年1月25日[1] - 1999年)は日本俳優。別名義に川村 耽平がある[1]

東京生まれ。旧制中学卒後、日活多摩川(後に大映)入社。 1943年稲垣浩監督・阪東妻三郎主演『無法松の一生』で未亡人の息子(ぼんぼん)役で出演。同僚の女優・森下彰子と結婚、その直後の1944年7月朝鮮に出征。復員後、桜隊の一員として広島で被爆死した彰子の両親のもとを訪ね、遺骨と対面。遺族によれば一晩中遺骨の傍らで泣き明かしていたという。後に親戚の勧めで再婚し俳優生活も再開した。彰子については長年、極限られた俳優仲間以外には話さなかったが、1993年7月、当時白井佳夫(映画評論家)が催していた『無法松の一生』の朗読再現パフォーマンスに出席した際、観客の前で積年の想いを語った。晩年も映画のオーディションを受けてまわり幾本かの映画に出演している。 映画『無法松の一生』、『赤い鷹』など松竹を中心に多数の作品に出演した。

おもなフィルモグラフィ

脚注

  1. ^ a b 『日本映画人名事典 男優篇上巻』キネマ旬報社、1996年、493頁。

参考文献

外部リンク