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2016年8月25日 (木) 08:56時点における版

渋川 義長(しぶかわ よしなが、生年不明 - 天文3年(1534年))は、戦国時代前期の武将室町幕府九州探題本姓源氏足利氏の一門・渋川氏の出身。渋川尹繁の子。一族に渋川尭顕がいるとされ、その続柄は諸説ある。

生涯

室町幕府九州探題・渋川尹繁の子として誕生。永正元年(1504年)、父・尹繁より肥前守護職と九州探題職を譲り受けたとされる。

父と同じく、室町幕府10代将軍足利義稙より偏諱を受けて、初めは稙直(たねなお)、のちに足利将軍家通字(「義」の一字)を下賜され義長と名乗る[1]

天文2年(1533年)、長年の庇護者であった大内氏大内義隆)を裏切り、逆に長年の宿敵であった少弐氏少弐資元)に通じたため、大内軍の攻撃に晒された。

天文3年(1534年)、大内軍によって朝日山城を落とされ自害した。義長の死によって、肥前における渋川氏は滅亡し、同じく九州探題も途絶することとなった。

脚注

  1. ^ 義稙が「稙直」と名乗ったのは永正10年(1513年)から同18年(1520年)の間とみられる(『承天寺文書』によれば同14年の段階で「稙直」を名乗っていた[1])。

関連項目