「ネメア祭」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新しいページ: 'thumbnail|300px|right|ネメアーにあるスタジアム '''ネメア祭'''(:Νέμεα,Νέμει...'
 
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[File:Stadion of Nemea.jpg|thumbnail|300px|right|ネメアーにあるスタジアム]]
[[File:Stadion of Nemea.jpg|thumbnail|300px|right|ネメアーにあるスタジアム]]


'''ネメア祭'''([[ギリシア語|希]]:Νέμεα,Νέμεια)は、[[古代ギリシア]]における[[ネメアー]]で開催された全ギリシア的大祭。[[古代オリンピック]]、[[イストミア大祭|イストミア祭]]、[[ピューティア大祭]]と並んでギリシア四大大会の一角を占める。
'''ネメア祭'''([[ギリシア語|希]]:Νέμεα,Νέμεια、[[英語|英]]Nemean Games)は、[[古代ギリシア]]における[[ネメアー]]で開催された全ギリシア的大祭。[[古代オリンピック]]、[[イストミア大祭|イストミア祭]]、[[ピューティア大祭]]と並んでギリシア四大大会の一角を占める。


ネメア祭は、[[古代オリンピック]]とピューティア大祭の行われない年(イストミア大祭と同様に、二年ごとに)開催された。古代オリンピックと同じく神々の王[[ゼウス]]の栄光を祝う大祭であった。したがって、古代オリンピックと類似点も多く、競技役員をヘラノディコスと呼ぶことや、開催期間中に聖なる休戦を行ったことも同じである<ref>フランソワ・シャムー、桐村泰次訳『ギリシア文明』論創社</ref>。
ネメア祭は、[[古代オリンピック]]とピューティア大祭の行われない年(イストミア大祭と同様に、二年ごとに)開催された。古代オリンピックと同じく神々の王[[ゼウス]]の栄光を祝う大祭であった。したがって、古代オリンピックと類似点も多く、競技役員をヘラノディコスと呼ぶことや、開催期間中に聖なる休戦を行ったことも同じである<ref>フランソワ・シャムー、桐村泰次訳『ギリシア文明』論創社</ref>。

紀元前6世紀頃(紀元前573年)には存在したことが確認されており、優勝者は[[アルゴス]]から持ってきた[[セロリ]]の冠を受け取ることが出来た。


== 神話 ==
== 神話 ==
[[アポロドーロス]]や[[パウサニアス]]によれば、このネメア祭は、オペルテースの死を記念して[[テーバイ攻めの七将]]が設立したものだという。テーバイ攻めの七将がネメアーに着いた時、喉が非常に渇いていたので、水を求めた。リュクールゴスとエウリュディケーの幼い息子[[オペルテース]]の乳母であった[[ヒュプシピュレー]]は、これに応えて彼らを近くの泉に案内した。その間、幼子のオペルテースを草原に放置してしまった。ヒュプシピュレーは「子供が歩けるまでは地面に置いてはならない」という神託を受けていたのであるが、それを忘れてしまっていた。ヒュプシピュレーが帰ってきた時には、オペルテースは大蛇(または[[ドラゴン]])によって食い殺されてしまっていた。これを見た七将は、大蛇を退治し、オペルテースを供養するために競技会を開催した。
[[アポロドーロス]]や[[パウサニアス]]によれば、このネメア祭は、リュクールゴスとエウリュディケーの幼い息子[[オペルテース]]の死を記念して[[テーバイ攻めの七将]]が設立したものだという。テーバイ攻めの七将がネメアーに着いた時、喉が非常に渇いていたので、水を求めた。オペルテースの乳母であった[[ヒュプシピュレー]]は、これに応えて彼らを近くの泉に案内した。その間、幼子のオペルテースを草原に放置してしまった。ヒュプシピュレーは「子供が歩けるまでは地面に置いてはならない」という神託を受けていたのであるが、それを忘れてしまっていた。ヒュプシピュレーが帰ってきた時には、オペルテースは大蛇(または[[ドラゴン]])によって食い殺されてしまっていた。これを見た七将は、大蛇を退治し、オペルテースを供養するために競技会を開催した。


また、[[ヘーラクレース]]が[[ネメアーの獅子|ネメアーのライオン]]を退治した記念に開催したという説や、テーバイ攻めの七将によって設立されたネメア祭を、ヘーラクレースがさせ、ゼウスの栄光を讃える競技会にしたという説もある。
また、[[ヘーラクレース]]が[[ネメアーの獅子|ネメアーのライオン]]を退治した記念に開催したという説や、テーバイ攻めの七将によって設立されたネメア祭を、ヘーラクレースが、ゼウスの栄光を讃える競技会にしたという説もある。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
最初、ネメア祭は戦士のための競技会であり、戦士たちやその息子たちのみが参加を許された。しかしその後、ネメア祭は全ギリシア人に開放された<ref>Pindar, Nem. iii. 114, etc</ref>。この競技会はクレオナイとプリウスの木立の間で執り行われた。
紀元前6世紀頃(紀元前573年)には存在したことが確認されている。最初、ネメア祭は戦士のための競技会であり、戦士たちやその息子たちのみが参加を許された。しかしその後、ネメア祭は全ギリシア人に開放された<ref>Pindar, Nem. iii. 114, etc</ref>。この競技会はクレオナイとプリウスの木立の間で執り行われた。


種目は多様であり、アポロドーロスによれば、[[競馬]]、重装歩兵走り、[[レスリング]]、[[古代ギリシアのボクシング|ボクシング]]、戦車レース、[[槍投げ]]、[[弓術]]、更には音楽コンクールまで行われていたようである。
種目は多様であり、アポロドーロスによれば、[[競馬]]、重装歩兵走り、[[レスリング]]、[[古代ギリシアのボクシング|ボクシング]]、戦車レース、[[槍投げ]]、[[弓術]]、更には音楽コンクールまで行われていたようである。


勝者へ贈られる賞品は、最初は古代オリンピックと同じく[[オリーヴ]]の冠であったが、後にセロリの冠になった。審判は黒衣を纏ったとパウサニアスは伝えている。
勝者へ贈られる賞品は、最初は古代オリンピックと同じく[[オリーヴ]]の冠であったが、後に[[アルゴス]]から持ってきた[[セロリ]]の冠になった。審判は黒衣を纏ったとパウサニアスは伝えている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2015年10月25日 (日) 07:25時点における版

ネメアーにあるスタジアム

ネメア祭:Νέμεα,Νέμεια、Nemean Games)は、古代ギリシアにおけるネメアーで開催された全ギリシア的大祭。古代オリンピックイストミア祭ピューティア大祭と並んでギリシア四大大会の一角を占める。

ネメア祭は、古代オリンピックとピューティア大祭の行われない年(イストミア大祭と同様に、二年ごとに)開催された。古代オリンピックと同じく神々の王ゼウスの栄光を祝う大祭であった。したがって、古代オリンピックと類似点も多く、競技役員をヘラノディコスと呼ぶことや、開催期間中に聖なる休戦を行ったことも同じである[1]

神話

アポロドーロスパウサニアスによれば、このネメア祭は、リュクールゴスとエウリュディケーの幼い息子オペルテースの死を記念してテーバイ攻めの七将が設立したものだという。テーバイ攻めの七将がネメアーに着いた時、喉が非常に渇いていたので、水を求めた。オペルテースの乳母であったヒュプシピュレーは、これに応えて彼らを近くの泉に案内した。その間、幼子のオペルテースを草原に放置してしまった。ヒュプシピュレーは「子供が歩けるまでは地面に置いてはならない」という神託を受けていたのであるが、それを忘れてしまっていた。ヒュプシピュレーが帰ってきた時には、オペルテースは大蛇(またはドラゴン)によって食い殺されてしまっていた。これを見た七将は、大蛇を退治し、オペルテースを供養するために競技会を開催した。

また、ヘーラクレースネメアーのライオンを退治した記念に開催したという説や、テーバイ攻めの七将によって設立されたネメア祭を、ヘーラクレースが一新し、ゼウスの栄光を讃える競技会にしたという説もある。

歴史

紀元前6世紀頃(紀元前573年)には存在したことが確認されている。最初、ネメア祭は戦士のための競技会であり、戦士たちやその息子たちのみが参加を許された。しかしその後、ネメア祭は全ギリシア人に開放された[2]。この競技会はクレオナイとプリウスの木立の間で執り行われた。

種目は多様であり、アポロドーロスによれば、競馬、重装歩兵走り、レスリングボクシング、戦車レース、槍投げ弓術、更には音楽コンクールまで行われていたようである。

勝者へ贈られる賞品は、最初は古代オリンピックと同じくオリーヴの冠であったが、後にアルゴスから持ってきたセロリの冠になった。審判は黒衣を纏ったとパウサニアスは伝えている。

脚注

  1. ^ フランソワ・シャムー、桐村泰次訳『ギリシア文明』論創社
  2. ^ Pindar, Nem. iii. 114, etc

関連項目