「ビーア・カルロフ・ドーニア」の版間の差分
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'''ビーア・カルロフ・ドーニア'''([[オランダ語]]:Pier Gerlofs Donia、約[[1480年]]キムスウェルト‐[[1520年]][[10月28日]][[スネーク (オランダ)|スネーク]])は、[[フリース人]]の[[ウォーロード]]、反乱軍「Zwarte Hoop:ツワルテ・ホープ(黒い希望)」を指揮した自由戦士であり[[海賊]]である。巨躯で強かった為、'''Grutte Pier'''(巨大なビーア)とも呼ばれる。 |
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ビーアと同時代の[[歴史家]]Petrus Thaboritaの記述に基づき、19世紀の歴史家Conrad Busken Huetは「Grutte Pier」において、「長い黒ひげと口ひげを生やし、肩幅が広い、色黒な、雄牛のように強い仲間たちの木。生まれながらにラフでユーモアのある人物を、不幸な出来事が野獣に変えてしまった。(1514年に)全ての財産が破壊され、家族たちも殺害されるという血まみれの理不尽に対する個人的な復讐から、彼は伝説的な自由戦士となった。」と記している<ref>Cd. Busken Huet, Het land van Rembrand. Studiën over de Noordnederlandsche beschaving in de zeventiende eeuw (2 delen in 3 banden). H.D. Tjeenk Willink, Haarlem 1882–1884</ref>。 |
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元は[[農民]]の父と[[貴族]]の母の間に生まれた農民であった。[[ゲオルク (ザクセン公)|ザクセン公ゲオルク]]が内乱を抑える為に置いた悪名高い傭兵隊「[[ランツクネヒト]]Black Band」連隊により、1515年に妻を無残に殺害され村を焼かれたことから貴族や仲間たちと共に反乱軍を結成した。彼はいくつもの戦いで勝利したが、[[ハプスブルク家]]の攻勢は止まらず、1519年にWierd Jelckamaに部隊の指揮を引き継ぎ引退した<ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。1520年10月28日、 |
元は[[農民]]の父と[[貴族]]の母の間に生まれた農民であった。[[ゲオルク (ザクセン公)|ザクセン公ゲオルク]]が内乱を抑える為に置いた悪名高い傭兵隊「[[ランツクネヒト]]Black Band」連隊により、1515年に妻を無残に殺害され村を焼かれたことから貴族や仲間たちと共に反乱軍を結成した。彼はいくつもの戦いで勝利したが、[[ハプスブルク家]]の攻勢は止まらず、1519年にWierd Jelckamaに部隊の指揮を引き継ぎ引退した<ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。1520年10月28日、ビーアは[[フリースラント]]のスネーク市Grootzand 12のベッドで亡くなった。<ref>Fries Scheepvaart Museum, Object number 1992-257</ref><ref>Kalma, J.J. (1970). (ed.) de Tille, ed. Grote Pier Van Kimswerd. Netherlands. p. 50. ISBN 90-70010-13-5.</ref>マティーニ教会に埋葬され、その墓は教会の北側に存在する<ref>Geldersche Volks-Almanak Published 1853</ref><ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。 |
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息子のGerloffは子供を作らず亡くなったが、娘のWobbleは結婚し子孫を残している。 |
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==民話== |
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フリース人からは英雄として扱われるが、ハプスブルク家側からは野蛮な侵略者として記述される。その剛力を表すエピソードとして、「親指と人差し指の間の硬貨を曲げた。約500㎏の馬を肩に乗せた。2.15メートル、6.6㎏の剣を持ち、一振りで複数の敵の頭を落とした。」などが残さている。 |
フリース人からは英雄として扱われるが、ハプスブルク家側からは野蛮な侵略者として記述される。その剛力を表すエピソードとして、「親指と人差し指の間の硬貨を曲げた。約500㎏の馬を肩に乗せた。2.15メートル、6.6㎏の剣を持ち、一振りで複数の敵の頭を落とした。」などが残さている。ビーアの剣とされるものは[[レーワルデン]]のフリース博物館に、ビーアの兜と言われるものが、スネーク市の[[役所]]に存在する。 |
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==ビーアを基にした作品や組織== |
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* 1970年代にオランダ語で放送された映像作品[[:en:Floris (TV series)]] |
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* 2012年にデモが公開されたゲーム[[:en:Cross of the Dutchman]] |
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* レーワルデンの[[ラグビー]]クラブの名前がビーアにあやかって「Greate Pier」RCである。<ref>[http://www.pitchero.com/clubs/greatepier/?primary=theclub&secondary=history RC Greate Pier Leeuwarden] history {{nl icon}}</ref> |
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==参考文献== |
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* [https://www.youtube.com/playlist?list=PLIh753ZH3k5rlnRRKCy87hryZNVdi8g-7 Popular Pier Gerlofs Donia Videos]([[Youtube]]) |
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2014年9月17日 (水) 00:44時点における版
ビーア・カルロフ・ドーニア(オランダ語:Pier Gerlofs Donia、約1480年キムスウェルト‐1520年10月28日スネーク)は、フリース人のウォーロード、反乱軍「Zwarte Hoop:ツワルテ・ホープ(黒い希望)」を指揮した自由戦士であり海賊である。巨躯で強かった為、Grutte Pier(巨大なビーア)とも呼ばれる。
ビーアと同時代の歴史家Petrus Thaboritaの記述に基づき、19世紀の歴史家Conrad Busken Huetは「Grutte Pier」において、「長い黒ひげと口ひげを生やし、肩幅が広い、色黒な、雄牛のように強い仲間たちの木。生まれながらにラフでユーモアのある人物を、不幸な出来事が野獣に変えてしまった。(1514年に)全ての財産が破壊され、家族たちも殺害されるという血まみれの理不尽に対する個人的な復讐から、彼は伝説的な自由戦士となった。」と記している[1]。
生涯
元は農民の父と貴族の母の間に生まれた農民であった。ザクセン公ゲオルクが内乱を抑える為に置いた悪名高い傭兵隊「ランツクネヒトBlack Band」連隊により、1515年に妻を無残に殺害され村を焼かれたことから貴族や仲間たちと共に反乱軍を結成した。彼はいくつもの戦いで勝利したが、ハプスブルク家の攻勢は止まらず、1519年にWierd Jelckamaに部隊の指揮を引き継ぎ引退した[2]。1520年10月28日、ビーアはフリースラントのスネーク市Grootzand 12のベッドで亡くなった。[3][4]マティーニ教会に埋葬され、その墓は教会の北側に存在する[5][6]。
息子のGerloffは子供を作らず亡くなったが、娘のWobbleは結婚し子孫を残している。
民話
フリース人からは英雄として扱われるが、ハプスブルク家側からは野蛮な侵略者として記述される。その剛力を表すエピソードとして、「親指と人差し指の間の硬貨を曲げた。約500㎏の馬を肩に乗せた。2.15メートル、6.6㎏の剣を持ち、一振りで複数の敵の頭を落とした。」などが残さている。ビーアの剣とされるものはレーワルデンのフリース博物館に、ビーアの兜と言われるものが、スネーク市の役所に存在する。
ビーアを基にした作品や組織
- 1970年代にオランダ語で放送された映像作品en:Floris (TV series)
- 2012年にデモが公開されたゲームen:Cross of the Dutchman
- レーワルデンのラグビークラブの名前がビーアにあやかって「Greate Pier」RCである。[7]
参考文献
- ^ Cd. Busken Huet, Het land van Rembrand. Studiën over de Noordnederlandsche beschaving in de zeventiende eeuw (2 delen in 3 banden). H.D. Tjeenk Willink, Haarlem 1882–1884
- ^ Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.
- ^ Fries Scheepvaart Museum, Object number 1992-257
- ^ Kalma, J.J. (1970). (ed.) de Tille, ed. Grote Pier Van Kimswerd. Netherlands. p. 50. ISBN 90-70010-13-5.
- ^ Geldersche Volks-Almanak Published 1853
- ^ Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.
- ^ RC Greate Pier Leeuwarden history (オランダ語)