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=== 三河奉行人 ===
=== 三河奉行人 ===
今川家における三河方面の奉行人であったとされる。
今川家における三河方面の奉行人であったとされる。
[[天文 (日本)|天文]]20年([[1551年]])12月2日付けで、[[松平忠茂|松平甚太郎]](忠茂)宛に「山新 景隆」名儀で[[飯尾乗連]](豊前守)・[[二俣扶長]](近江守)らと連署を加えた血判起請文が知られている。文書の内容から山田景隆ら連署の3名は三河方面の今川方諸士に対し軍事指揮権を持っていたと推測されている。
[[天文 (元号)|天文]]20年([[1551年]])12月2日付けで、[[松平忠茂|松平甚太郎]](忠茂)宛に「山新 景隆」名儀で[[飯尾乗連]](豊前守)・[[二俣扶長]](近江守)らと連署を加えた血判起請文が知られている。文書の内容から山田景隆ら連署の3名は三河方面の今川方諸士に対し軍事指揮権を持っていたと推測されている。


=== 岡崎城代 ===
=== 岡崎城代 ===
[[弘治]]2年([[1556年]])に[[徳川家康]](当時は松平元信)が[[今川義元]]の許しを得て、亡父[[松平広忠|広忠]]の法要のため本来の居城である岡崎城に戻った際、岡崎城本丸に居た今川方城代山田景隆に遠慮して、家康自身は二の丸に入って景隆に諸事の意見を仰ぐとした言われ、今川義元がその話を耳にして「この人若輩に似合わぬ分別厚き人なり」と家康に感心したという逸話が残る。(「岩淵夜話」、[[中村孝也]]『徳川家康公伝』所載)
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に[[徳川家康]](当時は松平元信)が[[今川義元]]の許しを得て、亡父[[松平広忠|広忠]]の法要のため本来の居城である岡崎城に戻った際、岡崎城本丸に居た今川方城代山田景隆に遠慮して、家康自身は二の丸に入って景隆に諸事の意見を仰ぐとした言われ、今川義元がその話を耳にして「この人若輩に似合わぬ分別厚き人なり」と家康に感心したという逸話が残る。(「岩淵夜話」、[[中村孝也]]『徳川家康公伝』所載)


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2014年9月2日 (火) 16:17時点における版

 
山田景隆
時代 戦国時代
死没 1567年?
別名 通称:右近衛門尉、新右衛門尉
主君 今川義元
駿河 三河
特記
事項
軍位 : 今川軍中陣左翼大将
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山田 景隆(やまだ かげたか))は、戦国時代の武士。今川家の家臣で今川軍中陣左翼大将。今川家譜代家老衆の一人。岡崎城代を勤めた。今川家三河奉行人。通称は右近衛門尉(うこんえもんのじょう)、新右衛門尉(しんえもんのじょう)。

家紋は丸に二つ引(引両紋)足利系今川引両紋。清和源氏系統か。

経歴

三河奉行人

今川家における三河方面の奉行人であったとされる。 天文20年(1551年)12月2日付けで、松平甚太郎(忠茂)宛に「山新 景隆」名儀で飯尾乗連(豊前守)・二俣扶長(近江守)らと連署を加えた血判起請文が知られている。文書の内容から山田景隆ら連署の3名は三河方面の今川方諸士に対し軍事指揮権を持っていたと推測されている。

岡崎城代

弘治2年(1556年)に徳川家康(当時は松平元信)が今川義元の許しを得て、亡父広忠の法要のため本来の居城である岡崎城に戻った際、岡崎城本丸に居た今川方城代山田景隆に遠慮して、家康自身は二の丸に入って景隆に諸事の意見を仰ぐとした言われ、今川義元がその話を耳にして「この人若輩に似合わぬ分別厚き人なり」と家康に感心したという逸話が残る。(「岩淵夜話」、中村孝也『徳川家康公伝』所載)


勢力と影響

松平忠茂を後援。織田家に近い桜井松平家大給松平家を圧迫した。


歴史資料

  • 「河手若宮鰐口」 - この鰐口は銘文に「河若手宮鰐口大旦那宗泰新次郎景隆 天文二十二年(1553年)霜月吉日」とある。宗泰新次郎景隆とは、今川氏に仕え勢力を揮った山田景隆のことである。山田氏の歴史資料としてとても貴重なものである(豊田市博物館)。
  • 「岡崎城代山田景隆等連署血判起請文」(観泉寺所蔵文書)、『今川氏と観泉寺』。