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'''オットー・ビュッチュリ'''(Johann Adam Otto Bütschli、[[1848年]][[5月3日]] – [[1920年]][[2月2日]])はドイツの動物学者、細胞学者である。
'''オットー・ビュッチュリ'''(Johann Adam Otto Bütschli、[[1848年]][[5月3日]] – [[1920年]][[2月2日]])は、[[ドイツ]][[動物学者]][[細胞学者]]である。


==略歴==
==略歴==
フランクフルトスイス出身で1930年にドイツに移住した料理人ドイツ人の母親の間に生まれた。[[カールスルーエ工科大学]]で鉱物学、科学、古生物学を学んだ。1865年から古生物学者、[[カール・アルフレート・フォン・ツィッテル]]の助手を務めた後、1866年にハイデルベルク大学に移り、鉱物学、化学、動物学の研究を行い、学位を受け、[[ローベルト・ブンゼン]]の助手を務めた。
オットー・ビュッチュリは1848年、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]において生まれた。父親はスイス出身で1830年にドイツに移住した料理人で、母親はドイツ人である。[[カールスルーエ工科大学]]で鉱物学、科学、古生物学を学んだ。1865年から古生物学者、[[カール・アルフレート・フォン・ツィッテル]]の助手を務めた後、1866年に[[ハイデルベルク大学]]に移り、鉱物学、化学、動物学の研究を行い、学位を受け、[[ローベルト・ブンゼン]]の助手を務めた。


1869年にライプツィヒ大学に移り、ロイカート(Rudolf Leuckart)の助手となり、動物学に転じることにした。[[線形動物]](線虫)の発生学的研究を行った。1873年から、キール大学でカール・アウグスト・メビウス(Karl August Möbius)を務め、1876年に教授資格を得て、カールスルーエ工科大学の講師を務めた。1878年にハイデルベルク大学の動物学、古生物学の教授となり、引退するまでその職を続けた。
1869年に[[ライプツィヒ大学]]に移り、ロイカート(Rudolf Leuckart)の助手となり、動物学に転じることにした。[[線形動物]](線虫)の発生学的研究を行った。1873年から、[[キール大学]]でカール・アウグスト・メビウス(Karl August Möbius)を務め、1876年に教授資格を得て、カールスルーエ工科大学の講師を務めた。1878年にハイデルベルク大学の動物学、古生物学の教授となり、引退するまでその職を続けた。


1876年に最初の主要業績となった『卵細胞の最初の成長過程、線虫の細胞分裂と結合の研究』("''Studien über die ersten Entwicklungsvorgänge der Eizelle die Zelltheilung und die Conjugation der Infusorien''")を発表した。昆虫、巻貝、線虫類の成長過程と比較解剖学的研究に取り組み、動物の[[有糸分裂]]を発見し、原形質の微細構造の増殖過程の研究や、原生動物の分類に重要な貢献をした。
1876年に最初の主要業績となった『卵細胞の最初の成長過程、線虫の細胞分裂と結合の研究』("''Studien über die ersten Entwicklungsvorgänge der Eizelle die Zelltheilung und die Conjugation der Infusorien''")を発表した。昆虫、巻貝、線虫類の成長過程と比較解剖学的研究に取り組み、動物の[[有糸分裂]]を発見し、原形質の微細構造の増殖過程の研究や、原生動物の分類に重要な貢献をした。


1914年にリンネ・メダルを受賞した。鉱物 Bütschliitに献名されている。
1914年に[[リンネ・メダル]]を受賞した。鉱物 Bütschliitに献名されている。


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2014年6月27日 (金) 12:29時点における版

オットー・ビュッチュリ

オットー・ビュッチュリ(Johann Adam Otto Bütschli、1848年5月3日1920年2月2日)は、ドイツ動物学者細胞学者である。

略歴

オットー・ビュッチュリは1848年、フランクフルトにおいて生まれた。父親はスイス出身で1830年にドイツに移住した料理人で、母親はドイツ人である。カールスルーエ工科大学で鉱物学、科学、古生物学を学んだ。1865年から古生物学者、カール・アルフレート・フォン・ツィッテルの助手を務めた後、1866年にハイデルベルク大学に移り、鉱物学、化学、動物学の研究を行い、学位を受け、ローベルト・ブンゼンの助手を務めた。

1869年にライプツィヒ大学に移り、ロイカート(Rudolf Leuckart)の助手となり、動物学に転じることにした。線形動物(線虫)の発生学的研究を行った。1873年から、キール大学でカール・アウグスト・メビウス(Karl August Möbius)を務め、1876年に教授資格を得て、カールスルーエ工科大学の講師を務めた。1878年にハイデルベルク大学の動物学、古生物学の教授となり、引退するまでその職を続けた。

1876年に最初の主要業績となった『卵細胞の最初の成長過程、線虫の細胞分裂と結合の研究』("Studien über die ersten Entwicklungsvorgänge der Eizelle die Zelltheilung und die Conjugation der Infusorien")を発表した。昆虫、巻貝、線虫類の成長過程と比較解剖学的研究に取り組み、動物の有糸分裂を発見し、原形質の微細構造の増殖過程の研究や、原生動物の分類に重要な貢献をした。

1914年にリンネ・メダルを受賞した。鉱物 Bütschliitに献名されている。

著作

  • Mechanismus und Vitalismus, Leipzig, 1901

参考文献

  • Peter E. Fäßler: Bütschli, Johann Adam Otto, in: Badische Biographien. Neue Folge 5. 2005, S. 42–44 (online)
  • Ilse Jahn: Geschichte der Biologie. Spektrum, 2000
  • Hermann Ziegenspeck: Bütschli, Otto, Zoologe. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 3, Duncker & Humblot, Berlin 1957, ISBN 3-428-00184-2, S. 6
  • Herder Lexikon der Biologie. Spektrum, 1994