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[[作家]]の[[井伏鱒二]]は全国各地の街道を探訪する紀行文『七つの街道』において若彦路を巡り、[[1956年]]([[昭和]]31年)12月に『別冊文芸春秋』第55号に掲載された。単行本は[[1957年]](昭和32年)刊行。


== 脚注 ==
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2013年10月23日 (水) 10:59時点における版

若彦路(わかひこみち)は、甲斐国駿河国を結ぶ街道のひとつ。「若彦」の呼称は日本武尊(ヤマトタケル)の子稚武彦王に由来するという(『甲斐国志』)。

史料上の初見は『吾妻鏡治承4年(1180年)10月13日の甲斐源氏挙兵に際した軍事行動で、同10月武田信義ら甲斐源氏の一族と北条時政義時は駿河国へ向かい大石駅に宿し、駿河目代の軍勢が富士野を廻って襲来すると、「富士北麓若彦路」を越えたとされている。

十三日、壬辰、(中略)又甲斐国源氏并北条殿父子赴駿河国、今日暮兮止宿大石駅云々、戌刻、駿河目代以長田入道之計、廻富士野、来襲之由有其告、仍相遭途中、可遂合戦之旨群議、武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光等、越富士北麓若彦路、爰加藤太光員・同藤次景廉、石橋合戦以後、逃去于甲斐国方、而今相具此人々、到駿州云々、 — 『吾妻鏡』
奈良原(笛吹市八代町奈良原)の旧道。(2012年7月撮影)

江戸時代に編纂された『甲斐国志』に拠れば甲斐国から他国へ向かう九筋のひとつに数えられる古道とされ、道筋は甲府盆地南端の奈良原(笛吹市八代町奈良原)を通過し、鳥坂峠を経て芦川村(笛吹市芦川地区)に至り、さらに大石峠を越え富士北麓の大石村(富士河口湖町大石)を経て富士北西麓を駿河国富士郡上井出村(富士宮市)に達するルートが想定されているが、甲斐源氏の通過した「富士北麓若彦路」に関してはこれと異なるルートも考えられている[1]

また、『国志』では成沢(南都留郡鳴沢村)から富士北西麓を通過し駿河上井出に至る「中の金王路」の存在を記し、これを若彦路の道筋の一部としている。

甲斐国から駿河国へ向かう街道には若彦路のほか、甲府盆地から富士川沿いに南下する河内路や、甲府盆地から右左口峠を超えて富士東麓を南下する中道往還が存在する。

2010年平成22年)3月に、大石峠の直下を貫く山梨県道719号富士河口湖芦川線若彦トンネルが開通した。

作家井伏鱒二は全国各地の街道を探訪する紀行文『七つの街道』において若彦路を巡り、1956年昭和31年)12月に『別冊文芸春秋』第55号に掲載された。単行本は1957年(昭和32年)刊行。

脚注

  1. ^ 末木(2007)

参考文献

  • 『山梨県歴史の道調査報告書 第8集』山梨県教育委員会、1986年
  • 『山梨県立博物館 調査・研究報告2 古代の交易と道』山梨県立博物館2008年
  • 末木健「甲斐の古道-若彦路-」『山梨県考古学協会誌 第17号』山梨県考古学協会、2007年
  • 末木健「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐 No,121』山梨郷土研究会、2009年
  • 海老沼真治「「富士北麓若彦路」再考-『吾妻鏡』関係地名の検討を中心として-」『山梨県立博物館 研究紀要 第5集』山梨県立博物館、2011年