「伏見街道」の版間の差分

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'''伏見街道'''(ふしみかいどう)は、最初は[[豊臣秀吉]]が[[伏見]](藤森)と[[京都]](五条)の間に造った[[街道]]。後に[[江戸幕府]]が[[参勤交代]]の西国大名と[[朝廷]]との接触を嫌い、[[東海道]]の[[大津宿]]と[[京街道]]の[[伏見宿]]との間に京都を通らず[[山科盆地]]を抜けて造った街道を伏見街道と呼ぶ。[[追分]]は東海道からの分岐点である。
'''伏見街道'''(ふしみかいどう)は、最初は[[豊臣秀吉]]が[[伏見]](藤森)と[[京都]](五条)の間に造った[[街道]]。後に[[江戸幕府]]が[[参勤交代]]の西国大名と[[朝廷]]との接触を嫌い、[[東海道]]の[[大津宿]]と[[京街道]]の[[伏見宿 (京街道)|伏見宿]]との間に京都を通らず[[山科盆地]]を抜けて造った街道を伏見街道と呼ぶ。[[追分]]は東海道からの分岐点である。


[[Category:街道|ふしみ]]
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2006年2月18日 (土) 14:05時点における版

伏見街道(ふしみかいどう)は、最初は豊臣秀吉伏見(藤森)と京都(五条)の間に造った街道。後に江戸幕府参勤交代の西国大名と朝廷との接触を嫌い、東海道大津宿京街道伏見宿との間に京都を通らず山科盆地を抜けて造った街道を伏見街道と呼ぶ。追分は東海道からの分岐点である。