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2012年10月30日 (火) 17:54時点における版
ロイヤル・オーク(Royal Oak)は清教徒革命中の1651年、当時のイングランド・スコットランド皇太子チャールズ(のちのチャールズ2世)が議会軍との戦いに敗れた後、彼らから逃亡する際に隠れたオークの木に与えられた名前。
1660年の王政復古後、この木の逸話は大変有名となり、王権を象徴する獅子と一角獣に支えられたオークの木から王が顔をのぞかせている図柄の陶器などが多く作られた。また、イギリス国内はもとより、アイルランド、カナダ、アメリカ合衆国、ニュージーランドなどに「ロイヤル・オーク」という地名が存在する。イギリス海軍には歴代8隻の軍艦に「ロイヤル・オーク」という名前が付けられている。
歴史
1642年に始まったイングランド・スコットランド・アイルランドの清教徒革命は1649年についに国王チャールズ1世(Charles I、1600年11月19日 - 1649年1月30日)の処刑にいたった。このとき王子チャールズは亡命してオランダにいたが、革命に反対するスコットランドが彼を王として推戴したのに呼応してスコットランドに上陸し、1651年1月1日に戴冠式を行った(このとき国王位についたのはスコットランドでのみで、イングランド史上はいまだチャールズは皇太子)。しかしその後潜入したイングランドで議会軍に手ひどい敗北を喫し(ウースターの戦い、1651年9月3日)、逃亡を余儀なくされた。
王は王党派の残党とともにスタフォードシャーのボスコベル館に逃げ込んだ。館の主はカトリックだったため王らをかくまったが、議会軍の詮議はその館にまで及んだため、王は側近とともに大きなオークの木の枝の中に一晩隠れ、追手をやりすごした。この木がのちにロイヤル・オークと言われるものである。
その後フランスに亡命した王は1660年に王政復古を果たすが、その際、王の逃亡に力を貸した者たちに、子々孫々まで与えられる年金を与えたり、王冠とオークの木を組み合わせた紋章の使用を許すなどしてその忠誠に報いたという。
現在のロイヤル・オーク
ボスコベル館に現在存在する樹齢200~300年のオークの木は当時の「ロイヤル・オーク」ではなく、その子孫と考えられていて「ロイヤルオークの息子 'Son of Royal Oak'」と呼ばれている。オリジナルのロイヤル・オークは17~18世紀に旅行者がお土産として枝を切るなどしたため枯れてしまったと言われている。
この「ロイヤル・オークの息子」は2000年の嵐で多くの枝を失い、大きなダメージを受けたため、翌2011年になってチャールズ皇太子の手でその横にもう1本のオークの苗が植えられることとなった。それは「ロイヤル・オークの息子」のどんぐりから育ったもので、まさしく「ロイヤル・オークの孫」と言うべきものである。