「ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)」の版間の差分
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[[ルイ4世アンリ (コンデ公)|ルイ4世アンリ]]とヘッセン=ローテンブルク辺境伯[[エルンスト2世レオポルト (ヘッセン=ローテンブルク方伯)|エルンスト2世レオポルト]]の娘カロリーヌの間に一人息子として生まれる。軍人として[[七年戦争]]に参加し、[[自由主義]]貴族となる。[[1789年]]に[[フランス革命]]が起こると、息子の[[ブルボン公]]ルイ・アンリ(後のコンデ公[[ルイ6世アンリ (コンデ公)|ルイ6世アンリ]])、同族のコンティ公[[ルイ・フランソワ2世 (コンティ公)|ルイ・フランソワ2世]]と共にドイツの[[コブレンツ]]に[[亡命]]したが、[[1804年]]に孫の[[アンギャン公]][[ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ|ルイ・アントワーヌ]]がフランス軍に処刑されている。 |
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諸外国を転々とし、[[1814年]]の[[フランス復古王政|王政復古]]の頃にイギリスから帰国した。[[1818年]]、[[シャンティイ]]で没した。 |
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[[1753年]]、[[スービーズ公シャルル・ド・ロアン]]の娘シャルロットと結婚、3人の子を儲けた。 |
2012年2月18日 (土) 08:11時点における版
ルイ5世ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデ(Louis V Joseph de Bourbon-Condé, 1736年8月9日 - 1818年5月13日)は、フランスの貴族。コンデ公。
ルイ4世アンリとヘッセン=ローテンブルク辺境伯エルンスト2世レオポルトの娘カロリーヌの間に一人息子として生まれる。軍人として七年戦争に参加し、自由主義貴族となる。1789年にフランス革命が起こると、息子のブルボン公ルイ・アンリ(後のコンデ公ルイ6世アンリ)、同族のコンティ公ルイ・フランソワ2世と共にドイツのコブレンツに亡命したが、1804年に孫のアンギャン公ルイ・アントワーヌがフランス軍に処刑されている。
諸外国を転々とし、1814年の王政復古の頃にイギリスから帰国した。1818年、シャンティイで没した。
1753年、スービーズ公シャルル・ド・ロアンの娘シャルロットと結婚、3人の子を儲けた。
- マリー(1755年 - 1759年)
- ルイ6世アンリ(1756年 - 1820年)
- ルイーズ・アデライード(1757年 - 1824年)
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