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'''多紀元簡'''(たきもとやす、[[1755年]][[1810年]]江戸時代後期の医師。名は元簡、字は廉夫、幼名は金松、長じて安清、安長と改める。桂山と号し、別号に櫟窓がある。
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==生涯==
==生涯==
[[多紀元徳]](藍渓)の長子として生まれる。儒学を[[井上金峨]]に、医学を父について修めた。安永6年([[1777年]])に将軍・[[徳川家治]]にお目通りが許される。寛政2年([[1790年]])、老中の[[松平定信]]にその才を信任され奥医師に抜擢、法眼に叙せられ[[徳川家斉]]の侍医となる。寛政3年([[1791年]])に父の主宰する躋寿館が官立の医学館となるとその助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政6年([[1794年]])に御匙見習となる。寛政11年([[1799年]])に父が致仕し家督を相続。同じ年の8月には同族の[[吉田沢庵]]とともに御匙役となった。享和元年(1801年)、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化3年([[1806年]])に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化7年([[1810年]])に再び奥医師として召し出されたが、その年の12月2日に急死した。享年56歳。墓は[[城官寺]](東京都北区上中里一丁目)にある。
[[多紀元徳]](藍渓)の長子として生まれる。儒学を[[井上金峨]]に、医学を父について修めた。安永6年([[1777年]])に将軍・[[徳川家治]]にお目通りが許される。寛政2年([[1790年]])、老中の[[松平定信]]にその才を信任され[[奥医師]]に抜擢、法眼に叙せられ[[徳川家斉]]の侍医となる。寛政3年[[1791年]]に父の主宰する躋寿館が官立の医学館となるとその助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政6年[[1794年]]に御匙見習となる。寛政11年[[1799年]]に父が致仕し家督を相続。同じ年の8月には同族の[[吉田沢庵]]とともに御匙役となった。享和元年(1801年)、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化3年([[1806年]])に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化7年[[1810年]]に再び奥医師として召し出されたが、その年の12月2日に急死した。享年56歳。墓は[[城官寺]]([[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[上中里]]一丁目)にある。


考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの[[伊沢蘭軒]]・[[多紀元堅]]・[[小島宝素]]・[[渋江抽斎]]・[[森立之]]らにみる考証医学を確立した。
考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの[[伊沢蘭軒]]・[[多紀元堅]]・[[小島宝素]]・[[渋江抽斎]]・[[森立之]]らにみる考証医学を確立した。
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*[[森潤三郎]]『多紀氏の事蹟』(思文閣出版、1931年)
*[[森潤三郎]]『多紀氏の事蹟』(思文閣出版、1931年)


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2011年10月18日 (火) 13:07時点における版

多紀 元簡(たき もとやす、宝暦5年(1755年) - 文化7年12月2日1810年12月27日))は江戸時代後期の医師。名は元簡、字は廉夫、幼名は金松、長じて安清、安長と改める。桂山と号し、別号に櫟窓がある。

生涯

多紀元徳(藍渓)の長子として生まれる。儒学を井上金峨に、医学を父について修めた。安永6年(1777年)に将軍・徳川家治にお目通りが許される。寛政2年(1790年)、老中の松平定信にその才を信任され奥医師に抜擢、法眼に叙せられ徳川家斉の侍医となる。寛政3年(1791年)に父の主宰する躋寿館が官立の医学館となるとその助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政6年(1794年)に御匙見習となる。寛政11年(1799年)に父が致仕し家督を相続。同じ年の8月には同族の吉田沢庵とともに御匙役となった。享和元年(1801年)、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化3年(1806年)に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化7年(1810年)に再び奥医師として召し出されたが、その年の12月2日に急死した。享年56歳。墓は城官寺東京都北区上中里一丁目)にある。

考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの伊沢蘭軒多紀元堅小島宝素渋江抽斎森立之らにみる考証医学を確立した。

著書

  • 『傷寒論輯義』
  • 『金匱要略輯義』
  • 『素問識』
  • 『霊枢識』
  • 『扁鵠倉公伝彙考』
  • 『脈学輯要』
  • 『医賸』

参考文献

  • 森潤三郎『多紀氏の事蹟』(思文閣出版、1931年)