「河北潟」の版間の差分

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2010年5月31日 (月) 22:21時点における版

{{subst:Infobox 湖|名称=河北潟|画像=
河北潟空撮画像
2007年8月18日撮影|所在地=石川県金沢市 - かほく市
河北郡内灘町 - 津幡町|面積=4.13|周囲長=24.8|最大水深=6.5|平均水深= -|貯水量= -|標高= 0|成因=海跡湖|淡汽=淡水湖|湖沼型=富栄養湖|透明度= -}}

野鳥観察舎から内灘大橋方面を望む
金沢市街金沢平野と河北潟

河北潟(かほくがた)は、石川県中部にある潟湖金沢平野の北部に位置し金沢市かほく市内灘町津幡町にまたがる。古くは蓮湖・大清湖(たいせいこ)とも呼ばれた。

日本海沿岸にある内灘砂丘でせき止められてできた海跡湖である。かつては汽水湖であったが、干拓が行われた現在は淡水湖。面積4.13km²(2002年10月1日現在)

埋め立てと干拓

古くから細々と埋立が試みられた。このことは、潟端(津幡町)の地名などに痕跡が見られるが、小規模なものであった。

1851年には、豪商銭屋五兵衛が私財を投じて干拓を試みた。しかし、埋め立ての土砂を固めるのに石灰を使用したことを毒物を流したと曲解され、翌年、付近で発生した伝染病の原因がその毒物で汚染された魚を食べたからと噂された。このため五兵衛は、投獄され、獄中死したため事業は中断された。

第二次世界大戦後、内灘試射場問題で、内灘村(現在の内灘町)は、見返りとして河北潟の干拓事業を要求。1963年から、農林水産省による国営事業として行われ、約1100haの農地が1985年に完成した。しかし、すでに農業は既に減反政策の時代に移っており、このため現在も未入植地が多く残る。

この干拓と埋め立てにより、豪雨により潟にたまった水を海へと放出する防潮水門をはじめ、数台のポンプ施設、 堤防淡水湖汽水湖を分ける水門など、数々の施設が出来た。


河北潟が埋め立てと干拓の双方を行っていることから地元ではこの二つの違いを小学校の中学年、高学年で河北潟を題材に学ぶこともある。

自然

河北潟では、ガマやアシ(河北潟周辺ではヨシと言う)などの植物や、鳥ではカモサギ、更に絶滅危惧種に 指定されているチュウヒなど、魚ではギンブナコイボラなどという豊かな自然がある。 河北潟周辺の地域では、これらの生き物を守るために、子供からお年寄りまで、さまざまな活動をしている。

産業

干拓事業では、計画では稲作を想定していた。しかし、米余りのため途中で畑作に転換された。レンコンスイカキャベツなどの大規模栽培や酪農が盛んである。周辺には県による農業試験場などが整備されている。

かつては漁業も行われていたが、現在は漁業権が消滅している。残された水域も防潮水門により淡水化されている。残された水域は県営漕艇競技場などに利用されている。また、かつて浅野川の河口だった部分は現在、貯水場となっている。

河川

流れ込む川

流れ出す川

関連項目