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2009年11月18日 (水) 15:16時点における版

 
北条氏綱
北条氏綱肖像画(小田原城所蔵)
時代 戦国時代
生誕 長享元年(1487年
死没 天文10年7月19日1541年8月10日
改名 伊豆千代丸(幼名)→伊勢氏綱
→北条氏綱
別名 仮名:新九郎
戒名 春松院快翁活公
墓所 早雲寺神奈川県足柄下郡箱根町
官位 従五位下 左京大夫
主君 今川氏親
氏族 伊勢氏後北条氏
父母 父:北条早雲(伊勢盛時)、母:小笠原政清
兄弟 氏綱氏時葛山氏広長綱(幻庵)
正室:養珠院、
継室:近衛殿(近衛尚通女)
氏康為昌氏尭、大頂院殿(北条綱成室)、浄心院(太田資高室)、高源院(堀越貞基室)、芳春院(足利晴氏継室)、ちよ(葛山氏元室)、女(吉良頼康室)
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北条 氏綱は、戦国時代武将で、相模戦国大名である。

なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)頃である。父の北条早雲は生涯、北条氏を称することはなく伊勢盛時或いは伊勢宗瑞と名乗ったが、ここでは北条氏及び北条早雲で統一する。

生涯

家督相続

長享元年(1487年)、北条早雲の嫡男として生まれる。永正15年(1518年)、父の隠居により家督を継ぎ、当主となる。ただし、かなり前から実権を譲渡されていたか、もしくは父と二元政治を行なっていた可能性がある。永正16年(1519年)に父が死去したため、名実共に北条氏の当主となった。

従来、父早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており、その説によれば、早雲が32歳のときに氏綱が生まれたことになる。

武蔵・下総侵攻

早雲の時代、北条氏の居城は伊豆の韮山城であったが、氏綱は居城を相模の小田原城に移した。、氏綱は姓を伊勢から北条へと改めた。

大永4年(1524年)、氏綱は、扇谷上杉朝興山内上杉憲房との和睦のために川越城に在城している隙に扇谷上杉氏の家臣・太田資高を寝返らせて江戸城を攻略する。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。同年2月2日に大永2年に当時まで味方であったことが確認できる岩付太田氏が敵対したために岩付城を攻撃し落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。また、毛呂城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城~川越城間の遮断に成功する。だが、大永4年6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまった。同年7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。享禄3年(1530年)には嫡男・氏康と共に上杉朝興多摩川河原の小沢原で戦い、これに大勝した(小沢原の戦い)。天文6年(1537年)には朝興が死去して、若年の上杉朝定が後を継いだことにつけ込んで侵攻し、河越城を奪取した。

関東公方足利晴氏を婿として和睦した。当時、扇谷・山内の両上杉家は関東公方足利家配下の管領を称していた。氏綱は、このうち扇谷家の「管領」を後継することが公方により承認(義父としての強要?)され、後に氏康がこれを後継したとも言う。しかし、山内家の関東管領が扇谷家よりいくらかの正統性と実質を伴っており、以降も管領家とされることが普通で、氏綱や氏康が管領を自称した記録は無い。

天文7年(1538年)には、小弓公方足利義明安房里見義堯らの連合軍と戦う(国府台合戦)。氏綱は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。

最期

氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、駿河国今川氏親との駿相同盟に基づいて甲斐国武田信虎と甲相国境で争い、天文5年(1536年)に今川氏で義元が家督を継承し甲駿同盟が成立すると相駿同盟が破綻し、今川とも抗争した(河東の乱)。

関東において氏綱に敗れた扇谷上杉家の朝定が、山内上杉家上杉憲政と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去した。享年55。(日付は異説あり)

後を嫡男の北条氏康が継いだ。なお、氏綱は天文7年(1538年)に家督を氏康に譲って隠居していたという説もある。

墓所

現在、神奈川県箱根町の金湯山早雲寺に残る氏綱を含む北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672年)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔。氏綱の本来の墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に葬られたが、旧早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、氏綱の墓所の位置は不明となっている。

人物・逸話

  • 伊勢氏が北条氏と改姓したのは、氏綱のときで大永3年(1523年)6月~9月の間である。これは、かつて鎌倉時代に関東を支配した執権北条氏(伊勢氏と同族)の末裔であるとして、関東支配の正統性が自分にあることを示すためであったとされている。
  • 「虎」、「郡」の印判を使用しており、多くの文書が現存する。
  • 政治家としては父を凌駕したとまで言われている。戦国大名として検地を発案し相模国で実施した。家臣団と領民統制に尽力した。また、評定衆・奉行衆の設置、さらには早雲時代の北条氏の統治は諸豪族による連合体制だったが、氏綱は豪族統制に強権を発動して豪族領の治外法権を否定するなど、北条家繁栄の基礎を築き上げている。
  • 氏綱は若い氏康の器量を心配して、天文10年(1541年)5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。(しかし、前文では「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」と氏康の器量を評価している。)
  • 北条記においては、「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」と評価されている。

五か条の訓戒

  • 一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
  • 一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
  • 一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
  • 一、倹約に勤めて重視すべし。
  • 一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。

家系

ほか

関連項目

先代
北条早雲(伊勢盛時)
後北条氏当主
第2代:1512年 - 1541年
次代
北条氏康