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[[元光 (漢)|元光]]元年([[紀元前134年|前134年]])、武帝は[[董仲舒]]の建議を容れ、毎年国[[郡]]ごとに孝者﹑廉者各1名を推挙するように命じた。やがてこの種の察挙は孝廉と通称されるようになり、漢代察挙制の中の最重要科目としての地位を占めるようになり、漢代の官人の主要な選抜手段となった。[[儒教]]的な教養と素行を兼ね備えている人物が主に推挙された。
[[元光 (漢)|元光]]元年([[紀元前134年|前134年]])、武帝は[[董仲舒]]の建議を容れ、毎年国[[郡]]ごとに孝者﹑廉者各1名を推挙するように命じた。やがてこの種の察挙は孝廉と通称されるようになり、漢代察挙制の中の最重要科目としての地位を占めるようになり、漢代の官人の主要な選抜手段となった。[[儒教]]的な教養と素行を兼ね備えている人物が主に推挙された。


孝廉により推挙された人物は中央に派遣された後、直ちに官職に就かず、まずは郎署に配置され郎官となった。これは宮廷宿衛を担当することで朝廷の実務を実地体験しながら学習することを目的としていた。このようにして一定期間経過された後、品第の結果により[[県令]]﹑長﹑相、或いは中央官職に選抜される制度であった。[[陽嘉]]元年([[132年]])、尚書令[[左雄]]建議により孝廉に応じるものは満40歳以上とされ(しかし、非常に優れた人物は年齢に拘らないで推挙することとなった)、同時に儒生出身の孝廉生に対しては[[五経|経術]]、文吏出身の場合には箋奏の試験が義務付けられた。これ以降、正規の官吏登用試験として整備されていった。
孝廉により推挙された人物は中央に派遣された後、直ちに官職に就かず、まずは郎署に配置され郎官となった。これは宮廷宿衛を担当することで朝廷の実務を実地体験しながら学習することを目的としていた。このようにして一定期間経過された後、品第の結果により[[県令]]﹑長﹑相、或いは中央官職に選抜される制度であった。[[陽嘉]]元年([[132年]])、[[尚書令]]の[[左雄]]建議により孝廉に応じるものは満40歳以上とされ(しかし、非常に優れた人物は年齢に拘らないで推挙することとなった)、同時に儒生出身の孝廉生に対しては[[五経|経術]]、文吏出身の場合には箋奏の試験が義務付けられた。これ以降、正規の官吏登用試験として整備されていった。


しかし、その後、役人と権力者・[[豪族]]の結びつきが強くなると、権力者や豪族の師弟が優先して推挙されるようになり、この制度は形骸化していった。[[九品官人法]]が施行されると、この傾向はより強くなった。
しかし、その後、役人と権力者・[[豪族]]の結びつきが強くなると、権力者や豪族の師弟が優先して推挙されるようになり、この制度は形骸化していった。[[九品官人法]]が施行されると、この傾向はより強くなった。

2009年7月17日 (金) 06:02時点における版

孝廉(こうれん)とは中国前漢武帝が制定した郷挙里選察挙科目の一つ。孝廉とは父母への孝順及び物事に対する廉正な態度を意味する。孝廉は察挙常科の中で最も重要視された科目である。

元光元年(前134年)、武帝は董仲舒の建議を容れ、毎年国ごとに孝者﹑廉者各1名を推挙するように命じた。やがてこの種の察挙は孝廉と通称されるようになり、漢代察挙制の中の最重要科目としての地位を占めるようになり、漢代の官人の主要な選抜手段となった。儒教的な教養と素行を兼ね備えている人物が主に推挙された。

孝廉により推挙された人物は中央に派遣された後、直ちに官職に就かず、まずは郎署に配置され郎官となった。これは宮廷宿衛を担当することで朝廷の実務を実地体験しながら学習することを目的としていた。このようにして一定期間経過された後、品第の結果により県令﹑長﹑相、或いは中央官職に選抜される制度であった。陽嘉元年(132年)、尚書令左雄の建議により孝廉に応じるものは満40歳以上とされ(しかし、非常に優れた人物は年齢に拘らないで推挙することとなった)、同時に儒生出身の孝廉生に対しては経術、文吏出身の場合には箋奏の試験が義務付けられた。これ以降、正規の官吏登用試験として整備されていった。

しかし、その後、役人と権力者・豪族の結びつきが強くなると、権力者や豪族の師弟が優先して推挙されるようになり、この制度は形骸化していった。九品官人法が施行されると、この傾向はより強くなった。

孝廉科は地方長官による推挙制度から科挙制度への過渡期の制度であったと言えるだろう。