「山中幸満」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
享年を計算すると父親の没年より後になってしまうため削除、要出典貼り付け
1行目: 1行目:
'''山中 幸満'''(やまなか ゆきみつ、生年不詳~([[1506年]])[[永正]]3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]])は[[戦国大名]]である[[尼子氏]]の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘、曾孫は[[尼子十勇士]]の筆頭、[[山中鹿之介]]。出雲[[山中氏]]の祖、父は[[山中幸久]]、母は桜井尾張守為信の娘、子は[[山中満盛]]、山中満重、古志判官光政の室。
'''山中 幸満'''(やまなか ゆきみつ、生年不詳 - {{要出典範囲|[[永正]]3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]([[1506年]][[5月25日]])}})は[[戦国大名]]である[[尼子氏]]の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘、曾孫は[[尼子十勇士]]の筆頭、[[山中鹿之介]]。出雲[[山中氏]]の祖、父は[[山中幸久]]、母は桜井尾張守為信の娘、子は[[山中満盛]]、山中満重、古志判官光政の室。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[長禄]]元年([[1457年]])、父・幸久が兄の[[尼子清定]]により幽閉され、55歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された。
[[長禄]]元年([[1457年]])、父・幸久が兄の[[尼子清定]]により幽閉され、55歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された。


家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主[[尼子経久]]は[[富田城]]に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。(1506年)永正3年5月3日に没した享年42歳、法名は乗雲である。
家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主[[尼子経久]]は[[富田城]]に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。{{要出典範囲|永正3年5月3日に没した。}}法名は乗雲である。


{{DEFAULTSORT:やまなか ゆきみつ}}
{{DEFAULTSORT:やまなか ゆきみつ}}

2009年4月19日 (日) 16:30時点における版

山中 幸満(やまなか ゆきみつ、生年不詳 - 永正3年5月3日1506年5月25日[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。)は戦国大名である尼子氏の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘、曾孫は尼子十勇士の筆頭、山中鹿之介。出雲山中氏の祖、父は山中幸久、母は桜井尾張守為信の娘、子は山中満盛、山中満重、古志判官光政の室。

経歴

長禄元年(1457年)、父・幸久が兄の尼子清定により幽閉され、55歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された。

家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の山中勝重がまだ若い為、月山富田城奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主尼子経久富田城に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。永正3年5月3日に没した。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。法名は乗雲である。