「景公 (斉)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Boca samba (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 中国君主 |
|||
⚫ | |||
|名 =景公 |
|||
|代数 =26 |
|||
|呼称 =公 |
|||
|画像 = |
|||
|説明 = |
|||
|王朝 =斉 |
|||
|在位期間 =[[紀元前548年|前548年]] - [[紀元前490年|前490年]] |
|||
|都城 = |
|||
|諱 =姜杵臼 |
|||
|氏 =呂 |
|||
|字 = |
|||
|諡号 = |
|||
|廟号 = |
|||
|生年 =不詳 |
|||
|没年 =[[紀元前490年|前490年]] |
|||
|父 =[[霊公 (斉)|霊公]] |
|||
|母 =[[穆孟姫]] |
|||
|皇后 = |
|||
|陵墓 = |
|||
|年号 = |
|||
|注釈 = |
|||
}} |
|||
⚫ | |||
兄の荘公が[[横死]]したあと、[[崔杼]]に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は[[晏嬰]]を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により[[司馬穰苴]]を抜擢した。斉は景公のもとで覇者[[桓公 (斉)|桓公]]の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、[[孔子]]も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。 |
兄の荘公が[[横死]]したあと、[[崔杼]]に擁立されて斉公となる。崔杼の死後は[[晏嬰]]を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により[[司馬穰苴]]を抜擢した。斉は景公のもとで覇者[[桓公 (斉)|桓公]]の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、[[孔子]]も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。 |